続けることが善なのか
知り合いがFacebookで、
「息子が中学校のプールの授業で久しぶりに泳いだら、水泳部の子よりもいいタイムだったことに感激し、バスケ部を退部して水泳部に入部したと言って帰って来た」
という投稿をしていた。
これを見た瞬間の私の感想は「そうなんだ、学年の最初に決めたことを続けなさいとは言わないもんなんだ」だった。
なにしろ、最初に入った財閥系の会社を、辞めたい辞めたいと繰り返す私に、母は「石の上にも三年」と繰り返し諭していたから、そういう昭和な感覚が自分のなかに今もあるのだろう。
いや、まて、私。
考えてみたら、ピアノも習字も、小学校の数年間。
小学校は卓球、中学はバドミントン、高校は1年ごとにあちこちのクラブを転々。
大学を卒業して入った会社は5年、日本語教師を1年、大学院に1年半、その後は日本の米系企業に5年。
その後の英系企業こそ、ロンドンに移って楽しいグローバルプロジェクトにいたから12年ほどいたものの、その後転職したロンドンにある米系企業はコロナでセミリタイアしたくなり1年ちょっとで辞めてしまった。
ところがコロナが終息しないので半年後に再び働き始めたのが今の会社で、ようやく1年半。
続けることが善ならば。
私はまったくもってダメダメだ。
よく西洋と東洋で解釈の違うことわざの例として上がるこの言葉。
動かず、変わらず、我慢し、耐えることを美徳とする日本では往々にしてこれは「やたら動いてたら経験が蓄積されないよ」といった意味で理解されるだろう。
なにしろ私たちの国歌の歌詞にも「苔のむすまで」続くことを良しと謳っているほどだ。
一方、ピカピカに輝いているものを美しいとしがちなアメリカの文化では、苔は取り除きたいもの。
そして、常に動いていて、新鮮で変化に富んでいることはポジティブに受け取られる。
スキルに長けた人ほど、ある程度たったら会社を変わり、新しいことに挑戦し、その都度給料も上がっていくのが当たり前ということだ。
チームのメンバーに新しいプロジェクトをやってもらう時、
「これを経験して成功させたら、あなたがやがて次の場所に行きたくなった時、履歴書にアピールできることになるわよ。もちろん私はあなたにうちのチームにずっといてもらいたいけどね」
と、私はよく云う。
みんな自分の価値を上げて次に行こうとしているのを知っているから。
かつて私が働いていた多国籍企業では、大きな意味の社内で、いろんな国やポジションの選択肢があったから、他社への流出ではなかったけれど、みんな「次」に目を光らせていた。
ましておや、私が今いる会社ときたら、世界の幾つかの地域でオペレーションしているだけのこぢんまりしたところだ。野望を持ったヨーロッパで働く若者たちが流出していく可能性は常に含みおかないとならない。
ただ、面白いことに、この苔がつかない暮らしについては、西洋文化においてもネガティブなイメージにリンクされることもある。
ボブ・ディランの歌詞にある「家もなく、誰にも気にされない」姿は、決して自由を満喫しているのではなく、かつての栄華とは対照的に孤立した女性の姿を皮肉ったもの。
西洋でも、しばしば住所や仕事を変える人は信用できない人、浮気者と思われはするのだ。
と、なると。
どうだろう。
続けることが善なのか。
転がることが善なのか。
今の私は、たぶん、「やみくもに転がらず、でも転がることを恐れないのがいいんじゃない」というかしら。
息子くんが新天地の水泳部で大活躍することを心より祈りつつ。