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チップといえば

おすすめ記事のなかで、帝国ホテルのサービスアパートメントに30日滞在した方の体験記があって、とても楽しく、一気にすべて読み終えてしまった。

それを読んだら、自分のホテル体験もいっぱい思い出されてきて。
それはチップにまつわる記憶にもつながった。

子どもの頃、一泊二日などで、気軽に箱根や伊豆の温泉に出かける家族だった。
そんなとき、祖母が「子どもたちもいて、にぎやかにしますが、どうぞよろしくお願いしますね」とお懐紙に包んで仲居さんになにか手渡していた。

今思えば、あれは心づけ。
だから、「日本にはチップ文化はない」というひとがいるけれど、私は、厳密にいえばそんなことはないと思う。
おつりはいらないよ、は、日本にもあるし、それって悪いことじゃない。

チップといえば。

仲良しのユッコちゃんと、卒業旅行で大陸横断しているとき、ラスベガスのカジノだかゲームセンターだかで、大きなサルの親子のぬいぐるみをひきあてた。
一緒に連れてニューヨークまで旅したけれど、だんだんと重く満杯になるスーツケースにとうとう困ってしまった。

「だめだ、どうやってもこの親子ザルは入らない。せっかくだからさ、このぬいぐるみにお掃除おばさんへのチップをもたせて置いていこうよ。きっとあのおばさんが誰か欲しいひと見つけてくれるよね」

当時泊っていたのは、一泊100ドル以下の予算でみつけた安ホテル。
毎朝、観光にでかけるときに顔を合わせるヒスパニック系のお掃除のおばさんは、グッモーニンといつも大きな笑顔で見送ってくれていた。

荷造りを終えて、親子ザルの胸元にサンキューという紙と「地球の歩き方」に書いてあった「宿泊数x1ドルのチップ」を抱えさせて部屋をでた。
廊下にはいつものようにおばさんがいて、私たちのスーツケースをみてとった。

グッモーニン。バイバーイ。
サンキュー。バイバーイ。

エレベータを待っていると、おばさんは私たちの部屋へと入っていった。
と、ものすごい勢いで、親子ザルを抱えてエレベーターホールへと走ってきた。

「これ、忘れた?忘れてないの?え、いいの?もらっていいの?」

私たちは、ニッコリ笑って、プレゼントフォーユー、プレゼントと繰り返した。

「そうなの?私のむすめ、すっごくハッピー。これ、とてもうれしい」

それは今でも思い出せるほどの、満面の笑顔だった。

カジノの景品だし。
子どもぽいし。
いらないし。

そんな経緯で置いていったことが恥ずかしくなるくらいの彼女の喜びっぷり。

ホクホクとあたたかな気持ちで出発できた。

私がアメリカで暮らしていた頃は、たとえば、
ホテルで荷物を運んでもらえば1ドル。
部屋の清掃にも毎朝1ドル。
空港からレンタカー屋までのシャトルを運転するひとにも1ドル。
食事の時には12-15%プラスするのが当たり前、と教えられた。

けれど、それももう20年以上前の話。

いまでは、食事の時のチップはすでに20%が当たり前、荷物などの時には倍の2ドルでも喜ばれない、とアメリカ妹はいう。

でも。
妹は続ける

「サービス業の人たちは、そうじゃなきゃ最低賃金しかもらえてないからね。ちゃんと払ってあげないと収入がないも同然なのよ」

それを痛感したのが、同じ北米の、カナダ、トロントに出張で行った最初の夜。

「ちょっと、ちょっと、チップを払い忘れてます!」

レシートにあった金額どおり、会社のカードで支払って、店をでようとしたところ、ウェイトレスが店の外までおいかけてきた。

イギリスでは、パブなどの簡易サービスの店ではチップはかからない。
ウェイターが注文を取りに来るようなレストランの場合、レシートの最後にはサービス料として12.5%が最初から足してあることがほとんどだ。

アメリカ・カナダに行くのは7-8年ぶり。
だから、レシート通り払って、チップを別に現金で置くなんてこと、すっかり忘れてた。

照れながら、慌てて財布のカナダドルをかき集めて払ったけれど、ぜったいマナー知らずの観光客だと思われたに違いない。

ヨーロッパ人は、おうおうにしてホテルのベッドメーキングや荷物を運んでもらったときのチップは払わない。

スペインなんて、食事後のチップだって、せいぜいお釣りの小銭を置いていくくらいだ。

とはいえ、知識として北米にはチップ文化があると分かっているんだし、ヨーロッパ人たちもアメリカにいったら場に従って払うのかしらと思って、あるとき

「ね、朝さ、枕元にチップおいてる?」

と、北米出張の朝ごはんのときに尋ねてみた。

「え、払わないよ。だってグローバルチェーンのホテルだよ、そんなの代金に入ってなきゃだめでしょ」

とバッサリだった。
しわいやなのか、自分の価値観であくまで判断するということなのか。
さすがに腹がすわってる。

そんなチームメンバーたちと、西ヨーロッパを皮切りに10年のプロジェクト期間の間、本当にいろんなところへ出張にいった。

最後のほうはチーム人数が増えて、地域も分担になったけれど、当初は、「わざわざイギリスに引越してきたのに、こんなに世界中出張ばかりしているなら日本に住んでてもよかったんじゃないか」と思うほどだった。

ドイツ
ベルギー
スウェーデン
デンマーク
アイルランド
シンガポール
インド
カナダ
アメリカ
中国
スイス
メキシコ
パナマ
コロンビア
アルゼンチン
ブラジル

まず2週間。
そして、数か月たったところで、フォローアップとしてまた2週間。

現地オフィスを訪ねることすらなく、ホテルの会議場を貸し切り、ぶっ続けでワークショップをする。

時差ボケでフラフラするなか、目覚ましで頑張って起き、ホテルの部屋から、エレベータで下におり、朝食。
そのまま宴会会議場へ移動し、まずは本社スタッフだけで、その日にカバーする内容を打ち合わせする。
そして今度は9時から5時までみっちりと各国のメンバーを相手に会議が続く。

それが終わると、たいてい今度は、ロンドンに残っているメンバーや世界の違う地域と会議が続く。

だから、夜9時くらいまでひたすら会議というパターンが多かった。

まだまだZoomやTeamの普及する前のこと。
一日中20-30名から多い時は150名近くを相手にプレゼンをした後に、今度はホテルの個室からネットワークをつないで音声だけで会議をする。
声は枯れるし、これはどこの国の課題を話す会議だったっけと頭の切り替えが必要だし、なかなかストレスがたまるものだった。

ぐったりして、外に出る気力もなく、ルームサービスか足元のホテルレストランで夕飯を食べる。
余力があったら、ホテルのバーで一杯ひっかけ、気づけば、もう、夜が更けている。

こんな調子で2週間。ホテルのエレベータで上下するだけ。
外気に触れない日すらある。

素敵に調理されたホテルの朝ごはんにも、昼ごはんにも、ルームサービスにも、さすがに飽きてくる。
和食だって恋しいし。

私の場合、そもそも住んでいるのが日本ではないので、日本のインスタント食材を持っていくのも簡単じゃない。
そんななか、いつも持っていくのは醤油の小瓶だった。

朝ごはんの目玉焼きだってこれを掛ければ和マジック。
アルゼンチンのステーキレストランでは、ウェイターさんが私が取り出した醤油とチューブわさびに「それってスシに使うアレ?肉にも使うんだ~!」と驚いていた。

こうして、ホテルで「暮らす」ことに慣れてくると、お願いごとや、図々しくなることがどんどん平気になってくる。

ハンガーをもっとくださいやアイロンを持ってきてください、などは序の口で、湯沸かしポットは借りられますか、缶切りを貸してください。

日本人なので浴槽のある部屋じゃないと嫌なんですとチェックイン時に頼むことも多かった。
そうしないと、海外では、シャワーしかない部屋というのがとても多いのだ。
数日ならいいが、さすがに2週間シャワーだけというのは、つらい。

会社が手配するホテルは基本的に同じチェーンのホテルだったから、備品に何が用意してあるか大体予想がつく。

だんだんと「あったら便利」をきわめていったら、読みでのある京極夏彦の入ったキンドル、無印のミニ洗濯ピンチ、吸盤をつけた洗濯ロープ、ラベンダーの香りの洗剤、日本の名湯の小袋やバブが、お醤油のほかに加わった。

ホテルに長く閉じこもっていると、食べ物と同じくらいにツライのが温度湿度管理だ。

なんせ、その国における「適温、適湿度」が自分と違うことが多いし、朝から晩まで、空調のなかだけにいるというのは、人間のカラダにはやはり不自然なんだと思う。

お風呂場のドアをあけ、熱いシャワーを流す。
寝る前には、浴槽にお湯を張って、タオルを垂らし、さらに、緩く絞ったタオルをくるくるとふりまわす。
どれも、室内湿度をあげるための工夫だ。

そして、バスタオルを、口、あご、首の周りに掛けて寝る。こうして空調が作り出す風の流れが喉を乾燥させ、肩口から体を冷やすのを防ぐ。

窓が開けられるのならば、空調を止めて、なるべく窓を開ける。
都会の高層ホテルなどではまず難しいから、そんな時は、空調を止めて、浴室の換気扇だけ回したりする。

早朝や夕方、時間があれば、安全な範囲で、外を歩き、できるだけ日光にあたる。
これがいちばん理想的。
リオデジャネイロのホテルは海岸に建っていたので、時差ぼけで5時に目覚めるのをいいことに毎朝散歩ができた。
ドイツのホテルの周囲には林道があって、こっそり野生のラズベリーを摘んで食べたっけ。

気分の切り替えも重要事項。
大勢の前に出るし、アジア人の女性ということを意識して、会議の時にはきちんとヒールを履きジャケットを着るようにしていた。
けれど、仕事がない時は、逆に、おもいっきりカジュアルな格好に着替えることにしていた。
Tシャツ、ジーンズにビーサンあるいはナイキ。
昔は、アジア人が素敵なホテルのロビーでそんな恰好して、みっともないと思われるんじゃないか、とドキドキしていた。
でも、ホテルの施設内をでられないとき、そうやって意識的にオンオフを切り替えないと、ズルズルと仕事モードも引きずってしまう。

いろんな国に行けてうらやましい、ホテル暮らしだなんていいわね、といわれることは多かった。

けれど、実際には、その国まで行っているのに、空港→ホテル→空港だったりして、パスポートのスタンプは増えても、その国に行った実感がもてないこともいっぱいあった。

そんな中、ホテルででくわす色々なできごと、特に、思いがけない心遣いに、どんなに癒されたことだろう。

インドでは、ルームサービスについてきたバラの一輪挿しを取り置いて、部屋に飾っていた。
数日経って、それがしおれてきた頃、会議を終えて部屋に戻ってきたら、びっくりすることに、ちゃんとした花瓶に活けられた幾つものバラに変わっていた。

インドチームとスリランカ、バングラデッシュのチームがなかなか合意にいたらず、連日の長丁場になる会議に加え、私はニューデリーの街のひどい排気ガスのため喘息の発作が出はじめていた。それでも喋り、プレゼンを続けなくてはならず、しかも出てくるご飯はみなカレー味。

体力も精神力も使い果たしていた私にとって、思いがけないバラのプレゼントは、部屋だけでなく気持ちも明るくなるようなできごとだった。

そのよろこびを伝えたくて、サンキューというメモとともに、チップを置いた。
こういうとき、ありがとうを示す方法があるというのは、とても嬉しい。

シンガポールにいったときのこと。
チャイナタウンにある漢方薬局の薬を昔から家族で愛用しているので、それをなんとか買いにいきたかった。
けれど、期間中はばっちり会議か会食の予定がはいっていて、そんな自由時間はなさそうだった。

「この薬を買いたいのですが、どうやら自分でチャイナタウンまで買いに行く時間はなさそうで。たとえばネットで注文みたいなことはできないでしょうか」

ホテルのコンシェルジュのおじさんに相談してみた。

中華系のそのおじさんは、ラベルをみた途端、

「ああ、この薬ですか!まあよくご存じですねえ。これだったら、チャイナタウンまでいかなくても、たぶん近くの薬屋で買えると思います。あと3時間したら、私は休憩時間になりますから、みておきましょう。部屋番号を教えておいてください。買えた場合、いくついりますか?」

と、いってくれた。

「そんな!休憩時間をつぶしてくださるなんて、申し訳ないです」

という私に

「ロンドンからいらしたというのに、お時間がないんですよね。そのくらい大丈夫ですから。ただ、見つかるかどうかは保証できません。いつまでご滞在ですか」

と、にこやかに応じてくれた。

結局、その日の夕方にコンシェルジェカウンターへ行ってみると、そのおじさんは満面の笑顔で、中国語の書かれたビニール袋を誇らしげに持ち上げてくれた。

「一軒目の薬局には8つしかなかったので、もう一つ回ったので、値段が若干違います」

そういって、きっちりとレシートまで渡してくれた。
私はチップを、それがダメならせめて交通費を、渡そうとしたけれど、これはあくまで滞在のお客様へのサービスですからといってゆずらない。
だから、素晴らしいサービスをありがとうというお礼状を出発の日にデスクに置いた。

リオデジャネイロのホテルでは、毎晩のように軽食を食べに立ち寄っていたから、バーテンダーさんと仲良くなった。
「みなさん、カイピリーニャを頼みますが、僕らは新作もつくりたいんですよ」というので、じゃあぜひにとお願いして、試作品のテイスターになった。
工夫したところを嬉しそうに語るバーテンダーさんの出してくれる「試作品」たちは、とても手がこんでいて目にも舌にも喜びだった。

そして、最後の日。
「照れくさいけど、一生にいちど、『私をイメージしてカクテルをつくってください』ってやつ、言ってみたかったんです」とお願いした。

日本酒をいれて、すこし和を意識したカクテル。

「でも、お客さまの場合、お酒強くしないと怒られますからね」

とウインクしながら出してもらった、かんきつ類の橙色が美しいカクテルの味は、忘れられない。

限られた時間、経験のなかで、もしかしたらその国のイメージを決めてしまう、というのは、なにもホテルだけではないと思う。

ボゴタの郵便局や、イスタンブールのマーケット、ストックホルムの空港で。
いろんな人たちの暖かい親切に触れて、その国のイメージが格段に変わった。

だから、日本で日本人じゃないひとが左右を見回していたら。
ロンドンで、観光客らしき人が困っていたら。
いや、近所の寿司屋でイギリス人が何を頼もうか悩んでいても。
余計かもしれないけれど、つい、声をかけてしまう。

チップをもらえるわけじゃないけれど。
自分がいろんな国でほっこりしたのと同じ気持ちを、持って帰ってくれるとうれしいな、と、思ってしまうのだ。

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ころのすけ
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