まずは歯よ、歯をみなさい
日本語教師をこころざしていたころ。
アメリカに日本語教師を派遣するというプログラムに参加した。
そのプログラムには事前研修があり、派遣先の州に行く前にシアトルでみっちり数週間鍛えられた。
クラスルームマネジメントや、指導教員と上手にペアをすすめていくコツ、異文化体験シュミレーションなどセッションがいくつもあった。
その研修の内容は、アメリカの学校で日本語を教えるときだけでなく、その後多国籍企業で働き、いろいろな国のひとと仕事をするときにも、大いに役に立った。
その講師のなかに、テキサス出身のヴィッキーという女性がいた。
「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラを彷彿とさせる強い意志が感じられる目元。
きりっとした顎のラインに濃い目の口紅。
くりくりとした黒い巻き毛。パッと目を引く美人。おそらく40代後半くらいだったろう。
「もうすぐ、みんなシアトルを離れて、派遣先の州に散らばっていっちゃうのよね。寂しいわ」
ランチタイムにカフェテリアのサラダバーを選びながら、いつものようにハワユーに続くカジュアルな会話をヴィッキーと交わした。
私と、鹿児島出身のMちゃんは、ヴィッキーを見かけると必ずなにかしら話しかけていた。
アメリカ人にしてはめずらしくちょっと皮肉の利いたジョークが大好きで、親子ほど年が離れている私たち受講者たちのことを、いつも対等に扱ってくれるヴィッキーが大好きだったから。
「そうそう、派遣先にバラバラになっちゃう前に、ヴィッキーにアドバイスをもらっておこうと思ってたんだった」
Mちゃんがサラダバーのトングを持ったままそう言い出した。
てっきり私はクラスルームマネジメントの質問かなにかをするのだと思った。
きっとヴィッキーもそうだったろう。
「ほら、私たち、これから、それぞれの派遣州にいって、もしかしたらロマンスなんかもあるわけじゃない?
見あやまらないために、アメリカでのイイ男の見分け方を、ヴィッキーにキチンときいておかなくちゃと思って」
ガッハッハッハッハ。
ヴィッキーは高らかに笑った。
真っ赤な口紅が美しく塗られたくちを、これまた豪快にあけて。
「あのね。いい?
イイ男かどうかは、歯よ。歯。
馬と一緒。
馬力があって、根性があるかどうかは、歯に現れるの。
だから、まずは歯。
そのオトコの歯をみなさい。」
ヴィッキーは、いかにもテキサス女といったワイルドさで、クッと口を横に大きく開くと、マニキュアのきれいに塗られた指を自分の白く輝いている前歯にかけ。
くくっと引き上げながら「歯よ。歯」といった。
その映像は、くっきりと私のこころに焼きついた。
私たち3人は、大声を出して笑った。
もちろん、それは、テキサスぽさも入った彼女なりのウィットに富んだアドバイス。
♢
とはいえ。
アメリカとイギリスで暮らしてみると、その文化に占める歯の大事さに驚く。
その重要さは、日本人とは比較にならない。
日本でも矯正は普通になってきたけれど、私が子供のころ八重歯はチャームポイントとすらいわれた。
石野真子、松田聖子、もう少し後では篠原ともえ。
でも、欧米では乱杭歯や、すきっ歯は矯正すべきものである。歯にまで気を配れるということは経済的ゆとりの表れであり、知識層、中・上流階層であることの表れでもある。
1990年代、私はいつもアメリカに行くたびにデンタルフロスや歯間ブラシを買い込んできていた。
正直、最初からデンタルケアに強く関心を持っていたわけではなかった。
どちらかといえば、外国かぶれ。ファッションとしてのデンタルケア。
映画「プリティ・ウーマン」で、ジュリア・ロバーツ演じる娼婦が風呂場でフロスを使うのを、すわ薬物使用かとリチャード・ギア演じる金持ちが誤解するシーンがある。そんな「歯の手入れにフロスを使う」ことが、もの珍しく、かっこいい気がしたのだ。
今ではむしろそのアメリカかぶれだった自分に。
そして、「歯よ、歯」と、自分の歯をむき出しにしてまで教えてくれたヴィッキーに感謝したい。
歯が、海外では文化的にとても重要に思われているのだと知ったことで、
フロスと歯間ブラシをカッコイイと思って10代から始めていたおかげで、
今ではそれがすっかり習慣になったから。
そしてそのおかげで、この歯科治療がめちゃくちゃ高いイギリスでも、半年に一度の定期健診で、毎回「はい、よく手入れできていますね。問題なし」とお墨付きをもらえている。
そして。
ヴィッキーの教えが無意識に刷り込まれていたせいか。
うちのアイルランド人は綺麗に揃った美しい歯並びの持ち主だ。
でも、彼の馬力や根性に関しては、
ちょっとした疑いも残るのだけれど。