散歩のひと 母校を訪ねる 哀愁の散歩
2018年6月 還暦越えて1年目の夏、高校の同級生達と母校への散歩を兼ねた飲み会を下川が企画し、6人が参加した。俺は運動?後、焼き肉が食べたいというリクエストがあったので、食い放題の焼き肉屋さんの予約をすることになった。休日なのでなかなか難しい。(名前は匿名)
成城学園前駅
小田急線の成城学園前駅の南口に9時30分に集合する。この日は気温も高く蒸し暑い、体が湿度と暑さに慣れてないため脱水症に気をつけたい。しかし普段飲んだくれているメンバーがいるので、少し心配になる。
1971年から1974年までの間通っていた成城学園前駅。今とは大きく違っていたが、駅前交番は昔と同じ位置にあった気がする。
ここからは思い出話も挟んでいく。哀愁の成城学園散歩だ。
尾崎紀世彦
学校が終わり、成城学園前駅の近くを仲間とうろついていた。当時、私服通学がOKだったので、そのまま遊びに行ける。暫く歩いていたら花輪や胡蝶蘭が入り口に飾ってあるレストランと思える新しい店を発見した。
皆でお茶しようと思い、その店に入ってみた。
「あれ、芸能人がいる」
成城学園辺りでは、芸能人を普通に見かけるので気にせず。席に着く。今度は小さい舞台があり、テンガロンハットを被った髭ずらの外人がギター弾いてカントリーを歌い出した。
「えぇーっ、尾崎紀世彦だ!」
そこで店員が来て、「今日は、招待客だけですので」と怒った口調で言い、俺達は追い出された。
その時「また這う日まで」と返せなかったことが悔やまれる。
エキストラ時代
歩き始める。爺さんの散歩だから、遅い。
桜並木など変わらない。当時は三船敏郎、石坂浩二の家があったが、今もあるのだろうか、敢えて確かめる気はないので、すぐに成城通りを京王線の仙川駅方面へ歩き出す。
成城学園はまず学校ありきで開発された街で、田園調布と同じで1970年代は田舎だった。映画関係の会社、円谷プロ、三船プロと色々あった。俺達は高校時代、エキストラで三船敏郎主演の時代劇に2,3度出ている。拘束時間は長いが弁当付きで、この当時に1日1万円程度はもらえる。俺達はこの臨時ボーナスを無視できないので、学校をサボって対応した。
テレビドラマ『荒野の素浪人』で一度、富士山の裾野にある自衛隊の演習場でロケがあった。ロケバスで用賀インターから東名高速に乗って御殿場に向かう。この時は同級生3人でエキストラとして帯同した。役は張りつけにされている農民だ。三船敏郎が助けにきて、縛っている縄を切ってもらったら逃げる。そんな段取りだった。
昼に弁当を食べていた時だ。向こうで重機の動く音がする、するとススキの生い茂る丘から戦車が現れた。助監督がかけよりなんか交渉している。
そこにサムライ、農民、馬に乗った三船敏郎のスタントマンも集まった。まるで戦国自衛隊だ。
今ならスマホで写真を撮って、SNSでバズル案件だが、当時は「すみませんねぇ」程度の話となる。自衛隊員も気さくに話し笑っている。
チキンレース
成城学園は閑静な住宅街だ。道も開発道路なので真っ直ぐで幅も広い、しかも綺麗だ。そこに車がほとんど通らない100mくらいの直線があった。行き先はどん詰まりで、そこにはコンクリートの土止めの壁だった。
学校が終わってから、そこに仲間と何となくバイクで集まった。皆高校1年生、免許取りたてだ。それでも何とかバイクを調達していた。
親が買う、バイトで買う、先輩から貰う、各自の家庭状況で色々な調達パターンがある。勉強は出来ないが、そこは賢い。だからバイクも新車のダックスから古いミニトレ、郵便局の中古の赤カブと千差万別だ。
「ねぇ、チキンレースやらない?」バイクテクニック抜群の穴山が言い出した。
「やろう、やろう」とバカ達が同意した。
「あの壁まで、どこまで速く近づけるか、どう?」
そしてチキンレースが始まった。
バイク2台同時スタートする。エンジン全開でクラッチをミートする。実際はそこまでやるバカはいなかった。ノークラのダックス、カブはアクセル全開で安易にローシフトするとひっくり返る。俺は愛車のホンダのCB50でチャレンジした。最初前輪が浮いてノーコントロールになったが、段々慣れてきて際どい位置まで加速出来るようになった。
そして赤いスーパーカブで参加していた飯出が調子に乗り、壁に激突。次に俺のCB50を貸した蟹沢も衝突した。そしてCB50のフロントフォークを曲げた。
「お前ふざけるなよ!」俺は怒り心頭した。
蟹沢の家は運送屋で金持ちだったので修理させた。
このチキンレース、住民が警察に通報したらしく、パトカーが来たので解散した。この危険な遊びでも、皆擦り傷程度で終わっている。当時の高校生の身体能力は凄い。
この飯出と蟹江は今回ツアーに参加していない。蟹沢とは高校卒業後、20才くらいまでは会ったこともあったが、それ以降を知らない。
飯出はまだ元気で、今でも茅ヶ崎の国道134号線でマイアミバイスをやっている。飯出からドン・ジョンソンを想像してみた。
バイク事故
まず、川西が円谷プロのバスと愛車ハスラーで正面衝突し前歯を折った。バイクの損傷状態から、その程度で終わったのが奇蹟だった。その後、彼はゴジラに勝った男と言われた。川西は今回欠席だ。
今回参加している江島は、ヤマハのバイクを乗っていた時に左折トラックに捲き込まれ、足を複雑骨折した。当時は膝が少し曲がらなかった。
散歩途中、江島が交差点で立ち止まった。
「ここだよ、ここが事故現場」と言う。
「ここだっけ?」皆が当時を思いだしていた。
「足は大丈夫かよ?」
「ほぼ治っている」
俺は江島が足を引きずりながら、懸命にサッカーする姿を思いだしていた。
青春時代
学校に着くと、あの自由奔放の学校も様変わりしていた。
当時は学生運動の影響で、生徒会の意見が通り私服通学可能だった。
夏場、俺はTシャツとジーパンが制服だった。高2でバイクの大型免許を取り、親父がバイク乗りだったので、ホンダのCB750、「たまに俺にも乗せろ」が条件で買ってもらった。
だから高2の夏場はナナハンで通学していた。俺達の代から騒音クレームでバイク通学は禁止になったが、近所のNTTの社宅の団地内の公園に路駐して通学していた。今、学校の周りは高級なマンショが建ており、路駐は直ぐに警察へ連絡されるだろう。
学校へ入ると、野球部が練習をしていた。参加していた大山は高校球児で、夏の甲子園大会において、西東京予選の準決勝まで行った。過去最高の成績を残したチームの4番だった。
この高校も中学の時にスカウトされて入学した。
「お前、野球部入っていれば、絶対に卒業させてやる、就職も」と監督に言われたそうだ。実際、あの成績でも卒業できた。そして卒業後、某名古屋の自動車会社のノンプロへ行った。
練習している40年以上後輩に声をかけていた。
大山にとって、ここは青春そのものだ。
途中コンビニで休み、軽食を取って仙川駅に到着した。予約していた焼き肉キングへ直行して90分肉を食べ、お酒も飲む。これから老いる一方だが、まだ皆元気だった。
「カラオケ行こう、タバコ吸いたい」と下川が言う。
「はいはい、あのさぁ、タバコ止めたら、寿命縮めるよ」と俺が返す。