仕事と遊び 出張先での練習
昭和という時代
サラリーマンとなって仕事を始めると、学生時代と比べて自由に使える時間が極端に少なくなる。
「あれ? 風呂入ったらもう寝る時間だ」
私は驚愕した。
働く=時間の某大な浪費だった。
「好きな事をやるには、もの凄いハンディだ」
それでも仕事を辞める訳にはいかない。私の時代は成人したら自力で生きることは当たり前の話。戦争で同年代の1/3を失った親達はそのような「甘え」には厳しい。
しかし、自分で始末をつけるならば、なにをしても干渉はしない。それは戦争で好きな事もできずに死んだ10代、20代、我慢の連続だった親達が一番欲したものだったからだ。
会社という場所
私が大学を卒業して社会人になった昭和43年(1981年)。あの当時はまだ年号で年を数えるのが普通だった。経済は参考として、1980年の大卒初任給は11万4,500円、一方2024年では22万6,341円、なんとほぼ半分だ。
理工学部電気工学科を卒業した私の仕事は発電所の各種制御装置の設計だった。CADもパソコンもコピー機さえ少ない時代、図面は手書きで青焼きをしていた。大きな工場内には図面を青焼きする専門の部署があった。外注する会社も多かった。
設計課の事務所は机での喫煙が可能だった。入社したら専用の灰皿をもらった。それには私の名前がマジックで書いてあった。
手書き時代の設計業務、永遠に時間がかかる作業であった。土曜出勤は当たり前で、平日残業は普通にある。大きな工場、事業所では社食が提供される場合もあったが、出前もよく取っていた。
新人で図面を描くのが遅い私、帰宅したら日付が変わっていたことも多々あった。先輩達は徹夜も普通にやっていた。皆さんが知っている組合もある大手の電機メーカでこの状況だから、他の下請けさんでは、どんなことになっているのか想像するのも恐ろしい。
こんな昭和の今ならブラック企業で、入社後4年間、私はモトクロスレースをやっていた。練習時間、レース、マシンの整備などに裂く時間は某大だ。時間を作るには睡眠時間を削るしかなかった。この頃は最長でも5時間程度しか寝ていない。
仕事はきちんとやってはいたが、会社の人付き合いは難しい。飲み会はキャンセルした。参加しても帰宅後にマシンの整備があるときは飲まない。
「お前、俺の酒が飲めないのか」とパワハラ上司もいる。
「飲めません」と言う。
それでも譲歩して少しでも飲むと
「なんだ、お前飲めるじゃないか」と酒をつぎ足してくる。
こうなると私は怒りで目つきが変わる。
「このクソ野郎」と言う目つきになる。
この頃は上司にとって、私はただの不良社員だった。
「何だお前は、それが人の話を聞く態度か!」
朝の朝礼で怒鳴られる。
実は前日のモトクロスレースで疲労困憊。無意識に壁に寄りかかっていたらしい。
社内リクレーションのゴルフ、軟式野球、ボーリング、そういうものは可能な限りつき合うが、その時間は少ない。同僚、先輩達には本当の事を言っていたので、文句は出なかったが、上司に言えば、「モトクロスなど辞めろ」と言われるのは確実なので押し黙っていた。
4年目でお役御免となり他の事業部へ放出された。今度はプラント事業部だ。何処かの現場へ飛ばされるのは確実だった。下手すると中東とかだ。
一方弟がこの頃、ホンダ・レーシング・カンパニー(HRC)へ出向しており、モトクロスにおいては差がついてしまった。
私はモトクロスやバイクは弟に任せておこうと思いモトクロスを引退した。
その後、スイミングクラブの友達の影響で、黎明期にあったトライアスロンを始める。そして生涯スポーツとなった。
世紀末、日本の会社は徐々にブラック企業から脱していた。特に禁煙と残業規制などが始まったことは嬉しかった。それでもトライアスロンは練習に膨大な時間がいる。私は相変わらず睡眠不足だった。
その頃の時間の作り方
出張先での練習
ここからは出張先での練習時間の捻出に関してだ。この頃は、自分たちが立ち上げたベンチャー企業で仕事をしていた。とにかく時間が足りなかった。
出張先では、客との設計打ち合わせ、IT設備の工事、ネットワーク機器、サーバ設置、設定などの現場管理などが仕事だった。
昼休みの練習は不可能だった。夜か朝にしか練習時間がない。だが地方の現場だと車移動となり、朝は移動のため時間はない。練習ができても夜となる。夜だと今度は飯の問題がある。
食事の問題
地方都市、さらに郊外では、夜7時過ぎると街中は飲み屋しか営業してない。レストランは国道沿いの焼き肉、ステーキ、ファミレスだ。時間がない私としては、練習する時間を作るにためコンビニ弁当とする。
7時に帰宅して1時間くらい走って、ホテルに戻ってからコンビニへ行くと弁当は無くなっているので、帰り道に弁当は買う。弁当を持ちながら走る。
金を払わず弁当を持って逃げている人に見える。職質されたら、身分証明書もない、これは危険なナイト・ランだった。
仕事と練習で神経が高ぶっているので寝られない、ビールも飲む。その後、風呂は寝落ちすると溺死する。それが怖いのでシャワーを浴びる。
少し目が覚めるとパソコンを開いて、会社へ繋いで事務処理、明日の準備をする。メールは基本現場で処理している。そして寝る。有料チャンネルなんか観る余裕も無い。出張中、遊び歩いて楽しいと言う営業が羨ましかった。私には地獄の日々だった。
練習内容
私の特質として繰り返すことが苦痛はない。
長距離ランニングで20キロの練習があるとする。この時10キロ2周でも1キロを20周でもどちらも苦痛ではない。
海外出張では、近くに走れる場所を特定して、2キロ、1キロを何度も往復したりした。海外は特定エリア以外に出るとかなり危険な場所もある。一般人が走っている場所を探していた。距離というより時間を気にした。夜なると危険になる場所も多い。時間で30分走って帰るピストンも多かった。これは国内出張でもやっていた。日本は本当に安全で、気ままに走れる。
ナイト・ラン
出張先は忘れたけど、現場管理だったので、長期出張だった。当然安いホテルに連泊する。JRの高架下、大体その横は併走する道になっている。その道沿いにあるホテルに泊まっていた。
夜になるとその道はほとんど車が走らない。高架の下は広場になっており、今なら駐車場、スケートボードパークになるだろうが、この時は近所の高校生が原チャリを駐めて、タバコを吸ったり、菓子を食ったりしていた。酒は飲んでいなかった。
そのメンバーの中にカップルがいた。毎日いちゃついていた。
私は夜の8時頃走っていた。律儀に繰り返すのが私の特技だ。何時しか、このカップルにとって、私はただの背景になった。私が走っていても、キスをしたりする。「まあいい。若いので許す」
しかし、ある日、男の子だけになっていた。その後一人っきりだ。
「フラれたなぁ・・」彼らにとって、私は背景だが、私は変化として彼らを捉えていた。現場でも、私がうろついているのが背景になった時から、現場の変化が見えてくる。
スイムの練習
出張先の町にプールの施設がある場合はスイミングセットを持っていく。
そうでない場合は陸練用のチューブを持参する。
富山県のある町に出張中、ホテルから1キロの場所に公営の温水プールを見つけた。この場合は確実にビジターで泳げる。
午後6時位にプールへ行く。こんな地方の温水プールで泳いでいる人達はほぼ常連だ。私は「俺はかなり泳げるぞ!」というオーラを出してプールサイドで準備運動する。すると常連達の視線を感じる。
プールに入るのも熟練者らしい作法で入る。そして取りあえずはったりをかます。いきなりクロールをトップスピードで泳ぐ。距離は最低でも100m。そしてフォームを気にしながらインターバルを始める。ここまで何事も無ければ、その後は泳ぐコースを譲ってくれたりする。しかし、時折マスターの強豪、高校生、中学生とバトルになり返り討ちを浴びる。でもそれも楽しい時間だ。
当然だけど小さな繰り返しをするスイム練習にも私は耐性がある。
トライアスロンが流行り始めた頃、25メートルプールでの10キロレースがあった。筑波であったのだが、30代で私は1位だった。
3時間泳いだ。途中で給水もする。手の皮がふやけてプールの壁のざらざらで皮膚が破ける。指先から血が滲んでいた。25mプール、1往復50m、200本。苦行だ。でも耐える。
海外出張でもスイミングセットは持参する。
ヘルシンキのホテルだけど、地下にプールがあると言うので、夜遅く行くと縦横8m位の箱だった。横にサウナがある。
「そうか、サウナなの後の水槽か・・」
私は誰もいないのでその冷たいプールを50往復した。海外のホテルにあるプールは池みたない形が多いので、一番長い距離が取れるコースを決めて泳ぐ。子供がいない限り、水に入る人はいないので泳げる。水温は不明だ。入ってみないと分からない。後、絶対に汚いので、水は飲まない、泳いだ後は口をよくすすぐし、部屋に戻ったらシャワーで体を洗うことは必携だった。
おまけ
オーストリア ドナウ川沿いのラン
2007年の5月 ホテルからドナウ川が見えた。走るにはいい感じだった。私は川沿いをランニングした。
漕艇場、ボート、そんな施設が多くあり、レストランもあった。
ランナーはあまり見かけなかった。この時期の東欧の景気は良く、世界は平和だった。