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唯一上司と呼べる人の言葉は家族のために働くということだった
上司
私にとって、上司と言える人は1人だけだ。その方に会えたのも奇蹟に近いし、私の判断も奇蹟に近い、おそらく、最近お気に入りのドラマ「ブラッシュアップライフ」的には、2巡目の人生だったのだろう。
私は勝負に出た
2002年3月、某大手総合電機メーカ-はこの頃から迷走していた。そして早期退職者を募っていた。私は親会社の部長から自分が会社を作ったから、立ち上げてくれと提案されており、それを飲んで、会社を退職することにした。この時、子供3人おり、息子がその年から小学4年、娘1が小学1年、娘2が幼稚園年少だった。転勤や仕事さえ我慢すれば年収は800万あった。だけど決断した。私は4月に早期退職することにした。この時46才だった。
また勝負に出る
実はもう一つ大きな仕事があった。この早期退職の退職金を使って、自分の地元に家を買うことだ。そのタイミングが問題だ。つまり某大手総合電機メーカーに20年勤続、前途有望な会社員として銀行のローンを組む必要があった。
しかし、3月は引っ越しの季節、なかなか希望の家が見つからない。焦る私だったが、4月に入った時点で不動産屋から電話があった。私達が希望していた新築一戸建て、先に手をつけていた人のローン審査が通らなかったそうだ。キャンセル待ちしていた私にまず一方が入った。私は即決断をした。「買うわ」
日程的にまだ退職前だ。退職金はまだ先なので、全財産に近い1500万円を前金として振り込み、残金3500万円のローンを組むことにした。そして契約が成立した後に早期退職となった。条件として会社都合の退職だった。そして空の銀行口座には退職金が振り込まれた。この時、勤続20年経っており、そこを起点に退職金はかなり違っていた。思ったより多かった。
まだ問題は続く
早期退社後、会社の立ち上げをしなくてはならない。無給で12月末まで会社立ち上げ作業をする。一方、Tさんの強引な営業で仕事も幾つか決まり、会社運営の目処がつくと、12月末に8ヶ月分の給料を貰った。
何とか切り抜けた。一息つき、2003年を迎えた。
新たな希望
時は遡り2002年8月。
私は3人の子供(息子 小学3年、娘1 幼稚園年長 娘2 2才)を抱えていた。住んでいるのは横浜の山の中にある古い住宅公団の団地、エレベータのない5階建だ。子供の教育のため文教圏の地元(北多摩南部・北部)に一戸建てを買って引っ越したかった。
この時期から日本は落ち目だった。半導体不況から始まり某大手総合電機メーカは迷走しており、私はインフラ屋から、IT技術者として、社内ベンチャーとしてISP(インターネット・サービス・プロバイダー)の立ち上げメンバーとして参加した。しかし、ここも資金の注ぎ込み方が中途半端で、他の大手から置いていかれて、1年半で解散した。
その後、私は知らない事業部へ飛ばされた。全く知らない上司が沢山いた。そして技術屋なのに、資格もあるのに今は営業だ。40才過ぎてから営業職へ、会社もバカの極みだった。私はこの頃から親会社の営業や技術屋と自由に仕事をしていた。営業だから売り上げをクリアーすればいい。会社の本流からは既に外れていたので、上に気を使う事も無かった。
そんな惑う私だが、この頃、親会社の総合営部の部長Tさん、このオッサンと仕事で会う機会が多かった。
そんなある日、駅のホームで、私は九谷焼展のポスターを眺めていた。
たまたま駅で電車を一緒に待っていたTさんが嬉しそうに話しかけてきた。
「なに、お前、焼き物に興味あるのか?」
「九谷焼は金沢ですよね、緑がいい」前日偶然にもNHKの特集を観ていた。
「おおぉ、そうだ、よく知っているな、お前、時間あるか?」
「これから、この展示会へ行くぞ」と言う。
ぐいぐいと顔を寄せる。圧が凄いオッサンだった。
その後、青山辺りのオープンカフェで一緒にコーヒーを飲む。
Tさんに名刺を渡された。名刺に書かれた株式会社は1年前に作ったと言う。
「今の会社は、縦割り組織で自由に動けない、お前、ここで学校の仕事を俺の代わりにやらないか?」
なんと、新しい会社へのお誘いだった。ターゲットは学校の情報システムや設備システムの構築だ。これで社内も含めて3度目の事業の立ち上げに絡むことになるが、今度は社外だった。
「考えます」と私は答えた。
そして月日が流れ、2003年の春に会社は大きな組織変更がおこなわれると噂された。その時点で、早期退職者の募集もあると聞く。私は腹を括って、乗ってみることにした。
子供の教育費
その後、Tさんはこの会社の社長となり、会社は潰れずに10年経った2012年。その時点で、息子は大学2年、娘1は高校2年、娘2は中学2年
息子は私学の生物系の大学、娘達は私学の中高一貫の女子校。また娘2はある不治の病を抱えている。
2004年から2020年までの資金計画を作ってはいるが、この時期は赤字だった。私は不安だった。そんな時、Tさんと食事中に弱音を吐いた。震災後、世の中がおかしくなっている頃だった。
「今、教育費が赤字で貯金を切り崩しているし、不安です」
それを聞いたTさん、このオッサンも子供が、息子、娘、娘と3人いる。息子は歯科医院で成功している。娘達は私学の中高一貫の女子校で、某有名私学の女子大を卒業している。
流石に家計は大変だったようだ。その経験からの言葉だった。
「IKEちゃん、大丈夫だから、子供達がお金を持ってきてくれるから」
意味不明の言葉で励まされた。
あれから13年の2025年、今なら分かる。親は子供の未来のために全力で働く。だから何とかなる。今頃、身をもって理解した言葉だった。
独り身だったらここまで頑張りはしない。私の性格から「FIREだ!」と言っているだろう。
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