見出し画像

散歩のひと 獅子座流星群 掩体壕がら眺める

1971年
 11月だった。夜も長くなり、空気も冷たくなってきた。夜になると星が綺麗に見える。冬を迎える狭間の月だった。

 中学校も既に衣替えされており、俺は学ランを着ていた。
昼休み、政夫が弁当を持って近寄ってきた。俺の横の席の加藤を「おい、席替わって」と脅し、そこへ強引に座った。そして弁当を食い始めた。あらかた食べ終えると、俺に話しかけてきた
「イケさぁ、今夜、獅子座流星群を見に行かないか?」
「それ朝ニュースで言っていた。今日の夜11時がピークだって」
「やっぱそうか、知っていたか、お前は興味あると思ってたよ」
「流星って見た事ないし、見たいね」
「だろう」政夫が笑う。

 こいつは先週、佐藤とタイマン(決闘)を階段の踊り場で繰り広げた。俺は立ち会っていて、適当なところで止めるつもりだった。
しかし、一発目の蹴りがカウンターで佐藤の顔に入ってしまった。それでも闘おうとファイティングポーズをとった佐藤だが、踊り場に血が滴り落ちている。鼻から多量の血が流れていた。見ると佐藤の鼻が曲がっていた。大騒動に気づいた女子が悲鳴をあげる。先生も集まってきて、救急車も呼ばれて修羅場になってしまった。

 俺はもらい事故のようになって、翌日、政夫と一緒に入院した佐藤を見舞にいった。付き添いの母親へ平謝りする。
お見舞いの果物を貰った佐藤は顔の真ん中を包帯で巻かれてミイラみたいな顔で言う。
「ありがとうなぁ、大丈夫だ、気にするなよ」
治療費は学校の保険となり、この件は終わった。

 現在だったら、どうなるだろう。世間が荒々しかったそんな時代の違いを感じる。暴力に慣れていた時代、今のように普段ゲームやバーチャルの暴力しかみていない子供は、自分の痛みも相手の痛みも想像出来ず、ノーコントロールとなる。

 当時、俺はサッカー部一本の生活だった。一方政夫は学内の不良仲間との生活だった。でも何故か俺をこの手の遊びに誘う。おそらく政夫の本質は科学少年だったのだろう。思春期の少年の気持ちは複雑だ。

 「どこに?」俺は聞いた。
「第一中前にある基地のフェンス横がよく見えるんだって」
「わかった。で、何時にするの?」
「11時」
「いいよ」
俺はお袋に本当の事を言って外出許可を得た。

 夜11時 第一中の正門で待ち合わせした。俺も政夫も自転車で来ている。俺は途中で警察に職質を受けたが、双眼鏡を持参していたので、流星群の観察をすると言う話が通じた。

 関東村(米軍居住区域)横の調布飛行場の一角の半円のコンクリートの構造物の上に、政夫と昇った。飛行場先は三鷹の森の暗闇が広がっている。東京天文台も高台にある。この辺り天体観察にはいい場所だった。

 先客がいた。大人のカップルだった。男の方が俺達を見ると声をかけてきた。
「君達も獅子座流星群を見にきたの?」
「ハイ、そうです」政夫が答えた。
「そうか、ちょっと薄雲がでてきたので、難しいかも知れない」
「大丈夫です」なにが大丈夫なのか分からないけど、俺はそう答えた。

 しばらくすると、「コーヒーでも飲まない?」女の人が言ってくれたので、「ありがとうございます」と俺達は答えた。
「ブラックコーヒー、砂糖がないけどいい?」
「ハイ、ブラック大好きです」適当なことを言う政夫
ポットに入れたコーヒーを紙コップに入れてくれた。

 コーヒーはよく飲んでいたが、ブラックは初めてだった。でも暖かくって美味しい、この時代、インスタントではないコーヒーは稀だった。
「これ美味しいです」と俺が言う
「MJBだよ、関東村のPXで買ったものだ」と男が言った。
「PXですか、関係者なのですか?」
「まあねぇ」

関東村
東京都渋谷区にあったアメリカ軍兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」が、1964年の東京オリンピック開催にあわせて日本に返還されることになったことから、代替住宅施設が建設され、「関東村住宅地区及び補助飛行場」と名称変更された。1974年米軍は返還を早め、関東村住宅地区は米軍から国へ正式に全面返還された。

PX post exchange
アメリカ軍用語。軍隊内で飲食物、日用品などを売る店のこと。旧日本軍では酒保と呼び、自衛隊では創設当初 PXと呼んだこともあるが、現在は売店といっている。かなり大規模なスーパー形式のものもあり、アメリカ軍の日本占領時代には東京銀座の松屋や服部時計店を接収して PXとしていた。

 その後、1時間ほど空を見ていたが、雲が厚くなってもう無理そうだった。俺達は退院した佐藤の鼻が曲がっていたことを話した。
「あれって、何時か治るのか?」政夫に聞く。
「さぁ、あれからまたかーちゃんと佐藤の家に謝りにいったけど、彼奴は全然に気にしてなかったぜ」
「そうか」

 そのカップルは車で来ており、椅子とかシート、毛布などを持参していいたが、とうとう諦めて、片付けをはじめた。その時、男が話しだした。
「そうだ、そこ、君達のいる場所、そこが何か知っているかい」
「ドラえもんのドラム缶」と政夫が答えると男は笑った。
「それは、掩体壕(えんたいごう)だよ、その中に戦闘機が入っていた」
「えぇ?今も入っているのですか」とぼけた事を俺は言ってしまった。
「それはない、歴史的構造物だ。ここも開発が始まるだろから、何時まであるかなぁ」
そう言うと2人は荷物を抱えて駐めてある車へ向かった。

 「帰るか」
俺達は、1945年、終戦間近の東京をB29からの空襲から守るため、ここから陸軍の飛燕戦闘隊が飛び立ち、夜は月光という夜間部隊が迎え撃っていた。そんな時代を知るよしもなく。その時俺は、国道沿いは交番があるから天文台通りから帰ろうと考えていた。

飛燕と富士山 調布飛行場 

*****

 その40年後、散歩でその辺りを歩くと、綺麗に整備された公園となっていた。掩体壕はモニュメントとして保存管理されていた。
今は関東村も返還されており、スタジアムなど大規模な運動場になっている。調布飛行場は相変わらず、小型レシプロ機が離着陸している。

着陸のアプローチ

 飛行機の離着陸は見ていて飽きない。散歩途中であったが、1時間ほど缶コーヒーを飲みながら過ごす。

調布飛行場

 私は来た道を戻る、再び掩体壕の前に行くと、1人の女性、かなり年配の女性が掩体壕を見つめていた。心ここにあらず、何となく危険な予兆もあったので、私はつい声をかけてしまった。
「ここの掩体壕の他にもっと北、中学校の前にもあったのですよ、今は撤去されたようだけど」
「知っています」女性は振り向いた。私より少し上かな、何となく先生のような雰囲気を持った人だった。

 「そうですか、地元の方なら知っていますよね」
「地元ではないのです、実は40年前、ここで交通事故で夫を亡くしているので・・」
「あっ、すみません」
「構いませんよ、これ見たら思いだしてしまい、そう言えば、その時、中学生の二人組に夫が、この掩体壕の説明をしたことがあって、それを思いだしてしまったので、ついぼんやりしてしまった。ごめんなさい」

 なるほど。
不思議な事はあるものだ。私はその問いの回答をした。
「獅子座流星群、1971年11月の深夜でしょう」
それを聞くと女性の目が大きく開いた。それは驚くだろう。また散歩が停滞する。

掩体壕
掩体壕

 昔の構造物、歴史的遺跡、自分の住んでいる周りにも幾つかあるはずだ。しかし、普段はただの背景として見ている。
全く心に残らないものだ。でも、そこに物語を重ねると記憶として残る。
これが人の不思議な点で、教科書より、本やアニメで歴史を学んだ方が人は記憶しやすい。

 今箱根駅伝を見ているのだけど、試合中にアナウンサーがそんな物語を大声で喋っても全く頭に残らない。ウルサいだけだ。

調布飛行場動画


いいなと思ったら応援しよう!