読む映画『フレンチ・ディスパッチ』
ウェスアンダーソン監督の新作、『フレンチ・ディスパッチ』を観た。2020年に公開予定だったものだが、延期に延期を重ねてようやく公開された。感無量。実に2年越しの鑑賞ということで期待値が高まりに高まっていたわけだが、そのハードルもぴょいっと悠に超え、新鮮な映画体験をまたしても届けてくれた。
「フレンチ・ディスパッチ」は映画に登場する雑誌名で、本社のあるアメリカ・カンザスの出版社のアンニュイ(もろにパリ)支社から発行されている情報誌という少々入り組んだ設定である。カンザスやフランスといった実在の地名を借りているけど、ほぼ架空の場所にある架空の出版社の架空の雑誌と言っていいだろう。
雑誌のモデルになったのは、老舗雑誌「ザ・ニューヨーカー」。監督は現存する既刊のニューヨーカーをほぼ全て所持する大ファンらしい。それゆえ、「フレンチ・ディスパッチ」には隅から隅までぎっちりとウェスの愛が詰まっている。私は紙媒体のニューヨーカーを読んだことがないので、その味わいが分からないのが少し惜しい。記事の内容の斬新さはもちろん、話題性が高くアクとこだわりの強い編集長やクレメンツたちのような名物ライターが実際にいたのだそうだ。映画『ライ麦畑の反逆者』でもサリンジャーがニューヨーカーに寄稿したがっていたし、きっとウィットに富んだ、ちょっとだけ斜に構えたセンスを持つ人間にとって頂点に君臨する雑誌だったのだろう。
本編では、急死した編集長の愛したライターたちが彼の遺志に沿って発行する『フレンチ・ディスパッチ』の最終号にフォーカスしている。
まず最初に大好き!となったポイントは、編集部の構成が紹介されていくカットでライターの部屋のみが映されたところ。
本人を映さず、部屋だけで個性あふれるライターたちを表現しているのが非常に素敵。部屋でキャラクター紹介というのは、シンプルながらも効果的でインパクトの強い描写だった。私は逆張りの申し子なのでウェスアンダーソンの映画に「おしゃれ」という評価だけは下したくないのだが、これは「おしゃれすぎる」と心底思った。
読み物を映画にしたようなスタイルがウェスアンダーソン節の真骨頂とも言えるが、今回は記事ごとにチャプターが分かれていて、ライターが書いた部分をナレーションするというスタイルで「雑誌」を映像化している。雑誌という視覚情報に特化した「読む」メディアに聴覚の要素をプラスして「観る」メディアにしているので、情報量が非常に多くて正直一回では拾いきれない要素もたくさんあった。しかし、それこそが雑誌を読むときに写真と文章の間を行ったり来たりする、あの心地よい圧迫感をそのまま映像に変換することに成功している証拠なんじゃないだろうか。
ざっくりと「街散歩/アート/政治/グルメ」というふうにチャプター分けされているフレンチ・ディスパッチ最終号だが、特に気になったポイントを3つに絞って考えてみたい。
『確固たる名作』シモーヌのミューズ性
ティルダ・スウィントンが演じる批評家ライター、J・K・L・ベレンセン担当の記事「画家と絵画の肖像」にフォーカスを置いた『確固たる名作』。
英語では「コンクリート」は「しっかりした」という形容詞でもあり、「歴史に名を残す揺るがぬ名作」と「コンクリートに描かれた絵画」という2つの意味が込められている。ベレンセンの講演会という形で記事が読み上げられていくので、彼女が自分の講演会をエッセイのように振り返って書いていたら面白いな、など想像した。
このエピソードにおいて印象的なのは、やはり囚人画家のモーゼスとそのミューズである看守シモーヌのドラマだった。
シモーヌを演じたレア・セドゥは非常に美しい女性だ。確かに彼女がこういったミステリアスなフランス人女性を演じることは多く、ステレオタイプだという意見も理解できる。彼女自身がすでにこの世の誰かの「ミューズ」となっているかもしれない。しかし、私たちはあいにくレア・セドゥがどのような人で、どのように生きているのかは知るよしもない。
だが私たちは「シモーヌ」を知っている。作品を完成できず、死のうとするモーゼスをピシリと嗜めたり、彼の熱烈な求愛を食い気味に跳ね除けたりする厳しい行動の中にモーゼスの画家としての才能への信頼と、人間から人間へのセックスに囚われない暖かな愛着が見てとれる。さらに私たちは訳の分からないポーズを取らされている時は素直に眉を顰め、モーゼスと美術商のカダージオが対談している際には賄賂のお菓子を受け取って食べる愛らしい姿も知っている。そんな「シモーヌ」を知っているから、抽象画である「Simone, Naked, Cell Block J Hobby Room」に「シモーヌ」の存在を感じることができるのだ。まさしくレア・セドゥの演技力とステージプレゼンスの賜物と言える。また、清潔な退廃性のあるモーゼスとシモーヌの関係性の描写も一役買っていることは間違いないだろう。
モーゼスがコンクリート壁一面に描かれた作品に対してつぶやいた"It's all Simone."(すべてシモーヌだ)は非常に印象的な台詞だったが、確かに彼女の柔らかくて神秘的な魂の輪郭を浮かび上がらせるような絵は、固く冷たいコンクリート壁に描かれるべくして描かれたのだと思わせられる。
そうすることで、去ってしまう彼女のすべてをいつでも見られる場所に置きたかったのだろう。
自分の絵が何という流派に属するのか、絵画が持ち出せるか否かなんて関係ない。モーゼスがしたかったのはただただシモーヌから湧き出るイメージを留めておくことだけだった。つまり、モーゼスは美しい視像としてのシモーヌだけでなく、それと同時に彼女に内在する本質的な美を見つめ、表現したということ。「Simone, Naked, Cell Block J Hobby Room」に現れているのはモーゼスにとってのミューズ、「シモーヌの全て」だ。
ゼフィレッリの死に様と幻想の街
フランシス・マクドーマンドが演じるジャーナリスト、クレメンツが担当した記事「学生運動の日記」を追う『宣言書の改訂』。ティモシー・シャラメ演じるゼフィレッリ・Bは若い学生運動家でストを扇動する熱い志を持つカリスマ的存在。でも身体つきを恥ずかしがったり案外とてもウブだったりと年相応な部分もある等身大の青年だ。彼と常に化粧直しのパフを手にした気が強い会計係のジュリエット(リナ・クードリ)の恋模様はなぜかお互いに微妙にイライラし合っていて微笑ましい。
バイクに2人乗りしているシーンでは、ゴダールの『気狂いピエロ』の最初の逃避行シーンのようなネオンの中を走る演出があり、今この時間に2人は2人だけの世界にいるという感じがして非常に良かった。フランス映画の中の青春は、どの青春よりも太く短く燃え尽きる。
このゼフィレッリは海賊電波塔でのマニフェスト放送中に不具合を直すために塔に登り、転落。あっけなく亡くなってしまう。このシーンはあまりにもあっけないのだが、このあっけなさにも詩情を感じてしまうのはフランス、ひいてはパリを大いに参考にした街が舞台だからではないかと思う。
パリは全世界の人間にとって憧れの街だろう。ものすごい質量の「憧れ」が集まりすぎて、もはや現実とは別物の「幻想のパリ」が出来ているのだと思う。この「幻想のパリ」は、創作物によく登場する。たとえば、くるりの『京都の大学生』という曲では、曲中に登場する「お嬢さん」が「夢見る」場所としてパリが登場する。
映画『ララランド』では、パリで女優をしていたミアの叔母が「冬のセーヌ川への飛び込みをもう一度やると言った」という歌詞のある歌でオーディションに合格した。冬の川へ飛び込むことが詩情を帯びることはパリじゃないとあり得ないだろう。「セーヌ川」と聞いているから、行ったことはなくても川沿いの古い街並みやそれらに積もる雪の情景を想像しているのであって、例えば冬の利根川に叔母さんが飛び込んでいたらミアは合格していないだろう。
ゼフィレッリの死に様は、めちゃくちゃ「フランス」なのだ。情熱的で、物悲しくてアイコニック。ともすれば学生の不慮の事故で終わるかもしれなかった彼の死が象徴的なものとなったのは、アンニュイという「幻想のパリ」で起こったことも大きく関わっているだろう。でも彼の親やジュリエット、そしてストでの動かされなかったチェス駒のことを考えるといたたまれなくもある。
ネスカフィエが毒を食べたあとに話したことはなぜ「あまりにも悲しかった」のか
『警察署長の食事室』のラストパートにおいて、「名シェフの横顔」の原稿を読んだ編集長が猛毒を食べた天才シェフ・ネスカフィエ(スティーブン・パーク)のくだりを省いたことに異議を申し立てたように、私も「そこが1番面白いのに」という感想を持った。記事を担当したのはアメリカからパリへ移民したローバック・ライト。屈辱的な理由で警察署に勾留されていたところを編集長に引き抜きされたライターである。
警察署特有の料理が独自に進化して一つの料理ジャンルとなった、という設定(本当にあったらゴメン)で、ネスカフィエはそれにおいては右に出る者がいない名シェフだ。
グルメ記事を担当するライトが警察署長にお呼ばれしてさあご賞味、というところで警察署長の愛息子ジジが誘拐されてしまう。ここからは料理そっちのけの追跡劇。犯人グループを追い詰め、ネスカフィエが猛毒の料理を振る舞うことで一網打尽にしようという作戦が功を奏し、色々あってなんとかジジを救い出してめでたしめでたし、というところで記事は終わる。
「名シェフの話じゃなかったのか」という編集長の言葉の通り、ネスカフィエと彼の料理はほとんど全然登場しない。ライトは名シェフに関する部分、つまりネスカフィエが猛毒の味の素晴らしさを知ってしまったくだりを大幅に削除していた。理由は「あまりにも悲しすぎるから」。
確かに、それまでほとんど台詞が無かった彼が、息も絶え絶えになりながら「今までに食べたことがない味だった」と饒舌になる姿には狂気じみた哀愁が漂っていた。
ネスカフィエはアジア系の移民である。ライトは同じ移民として1人アンニュイの街にいる者として、その孤独な求道に感じるものがあったのだろう。
では、なぜこの話を載せたくなかったのだろうか。私がもしこの記事を編集していたとしたら、ここは絶対に残したいだろう。それぐらいパンチラインになる可能性がある話だからだ。しかし、ライトはこの部分を削除することを選んだ。
思うに、ライトの中で『フレンチ・ディスパッチ』は希望の雑誌だったのではないだろうか。『フレンチ・ディスパッチ』は世界中で読まれる雑誌だ。編集長に拾われてからはライトの居場所でもあった。猛毒を食べたネスカフィエは血清を山ほど打たれて一命を取り留めていたが、結局身体は異物を受け付けない。
これはあの街の、ひいては国にはびこるマイノリティへの不寛容がちらりと顔を覗かせるようで、切なくて苦しい。マイノリティは「猛毒」だ。
美味しくて新しくて、既存のコミュニティを乱す。だからライトは、希望の雑誌『フレンチ・ディスパッチ』から、祖国を追われて孤独に生きる世界中の彼やネスカフィエのような者たちにこんなに悲しいエピソードをわざわざ届けたくはなかったのだろう。
おわりに
監督の頭の中の理想の街を表現するための細かく入り組んだ設定はプリズム反射のように輝いて、「フレンチ・ディスパッチ」という雑誌とそれを作り出す人々の輪郭を掴ませてくれた。
細かく綿密に練られた架空の世界で起こる物語は、それまで連綿と続いてきた雑誌と、その廃刊にまつわるどうしようもない切なさを描き出す。それと同時に、永続性の無いものへのささやかな記念碑として受け継がれていく。
ウェス・アンダーソンはこの映画を通して短編オムニバス形式にチャレンジしたかったという。雑誌というメディアはそれにぴったりのチョイスだったし、「読む映画」または「観る雑誌」として大正解の形が『フレンチ・ディスパッチ』なのではないかと思う。
また、映像の作り方もとても自由で、枠組みから離れた手法が使われているのが印象的だった。映像のサイズがシーンごとに切り替わったり、白黒映像とカラーの映像を特に規則性なく組み合わせたりと「ここでこうした方が魅力的だ」という監督の直感が働いているのだろうと感じられる作りだった。
特に、誘拐されたジジがシアーシャ・ローナン演じるショーガールに瞳の色を尋ねた時に、それまで白黒だった映像が切り替わって彼女の碧眼がカラーで映されるシーンがとても美しく、文章を読んでいる時の頭の中の映像がそのまま視覚化されたようで印象に残っている。
私は『フレンチ・ディスパッチ』のことが、映画としても(架空とはいえ)雑誌としても大好きだ。これからも映画と文章に私なりに携わっていきたい。
活字と映画と幻想のパリ・アンニュイにたくさんの愛を込めて。ウェス・アンダーソン監督、ずっと大好き!!
おしまい