12月 雲海に浮かぶ積雪の竹田城址
ほぼ1年前の2019年12月10日、日本政府は「反社会的勢力」について「その時々の社会情勢に応じて変化し得るものであり、限定的・統一的な定義は困難だ」とする答弁書を閣議決定しました。
まあ、世の中、いろんな「社会的勢力」があるので、むつかしいことは分かります。でも、日本という国は、とりあえず法治国家です。ですから、反社会的勢力の一つとして「法に抵触することを実行する勢力」を挙げることに反対する人はいないでしょう。
さあ、そこで思い出すのは、その当時の政府を代表していた総理大臣の言動です。ここでは、ただ一つだけ事例を挙げます。彼は同年12月9日、記者会見でつぎのように述べました。
「憲法改正というのは、決してたやすい道ではないが、必ずや、わたしたちの手で、わたし自身として、わたしの手で成し遂げていきたい」
これは明らかに憲法に抵触しています。というのも憲法99条は、
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
と述べているからです。とすれば、
「現代日本の政府こそ、最も典型的な反社会的勢力だ」
と考えることもできないわけではありません。
これ以外にも彼らの法の無視、虚偽の答弁など、社会通念に反する言動は少なくありませんでした。それらがどんな結果をもたらすのでしょうか。
最も深刻なことは、少なからざる人々が、政権のマネをすることです。結果、日本社会全体の規範が崩壊することでしょう。
こうした状態をフランスの社会学者エミール・デュルケーム(1858~1917)は「アノミー(英: 仏: anomie)」と名づけました。それが政治・経済・文化などが中央集権的な現代日本社会では、すぐに全国に蔓延するかも知れません。それは「アベノアノミー」と名付けることができるように思います。
そこで思い出すのは、古い時代の日本社会です。すべてが良かったわけではありません。が、封建時代の日本では一定の範囲ではあれ、地域ごとの自律が認められていました。そんな時代に建設された古い城に「にっぽんの原風景」の一つが見えるかも知れない。そう思って、こんなコラムを書いてみました。 (「積雪の竹田城址」の写真:Wikimediaより)
鎌倉幕府が成立したことで日本は、軍事力を背景に領主が一定の地域を治める封建制への歩みを始めた。こうした制度が確立したのは、日本を除くと、イギリス、フランス、ドイツとイタリアの一部だけなのだ。
それ以来、織豊政権の成立まで、日本の国土は南北朝の動乱、応仁の乱とその後の戦乱に支配された。それが軍事技術を発展させる。それを象徴するのが日本特有の城郭建築である。
その様式は時代と共に変化する。鎌倉時代は平地の館、南北朝時代は戦いに有利な高い山城、次代への過渡期としての室町・戦国時代は低い山城、そして近世は城下町経営に便利な平山城ないし平城と、その立地は劇的に変化した。
兵庫県・和田山の南、小高い古城山に残る豪壮な石垣積みの竹田城跡は、中世が近世に席を譲ろうとする15世紀なかばに建設された。それが約100年後、秀吉の攻撃で落城し、配下の大名だった赤松氏の手で改修された当時の山城の典型である。
足場の悪い山上に巨石を運び、大小のそれらを組み合わせて城の堅固な土台とする知恵と技術は相当なものだ。それを当時の人びとは、すべて独立独歩の手仕事でやりとげた。
いや、独立独歩だからこそ可能だったのだろう。地域ごとの知恵と力で自らを守り、地域を自力で経営しようとする人々の能力と気概は、軍事封建制が日本と西ヨーロッパにだけもたらした歴史の賜物にほかならない。
それは時代が徳川の近世に移っても、240余に及ぶ藩ごとの殖産興業の試みを盛んにした。で、明治以降の近代が必要とする多彩な経営能力を身に着けた多数の人材を育てたのだ。
今日、時代がひと回りして、明治以来の繁栄を支えた中欧集権的な国の制度が時代遅れとなり、地方の自律的経営が焦眉の課題となっている。そのための訓練を日本人は、この城が建造された時代にこそ積み上げたいたはずなのだ。