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「夢は天才である」──理系と文系の「あわい」

          写真:左=フロイト、右:ユンク(Wikipediaより) 
 
 石川啄木の小説に「雲は天才である」という失敗作があります。
 これはタイトルが良くないのかも知れません。というのも、改めて考えてみると、啄木のいう「雲」よりも、「夢」こそが「天才」なのじゃないかと思えるからです。

 ボクとしては「夢こそ天才である」といいたいのです。

 さあ、そこで……。人は何故、どのような脳の働きで夢をみるのでしょうか。眠っているわけですから、目で見たり、耳で聞いたりするわけではありません。
 簡単にいうと、脳の視覚野や聴覚野という場所が、あたかも目で見たり、耳で聞いたりしているかのように働くのです。

 そのしくみは、ここでは詳しく説明できません。いずれ、近いうちに、そんな話題を取り上げることにします。
 ただ、そのことを、ごく簡単に解説しておくと、つぎのようになるでしょう。

 夢は「脳の働き」によって生じる。しかし「脳の働き」とは「心を働かす」ことにほかならない。
 ところで「心」は、人それぞれの過去の体験に由来し、未来のありようを決める。「夢」は、そんな「心」が、みずからをさらけだして姿かたちをあらわにしたものなのだ。


 脳を研究するのは脳生理学です。
 心を研究するのは心理学です。
 従来これらは、それぞれ別々に「夢」を語るケースが多かったように思います。

 それに対して、ボク自身は、その「あわい」を埋め、つなぎ、その「あわい」にたゆたいながら「夢の全体像」をとらえたいなと考えています。

 こうした試みに、文化人類学が新しい視点を提供してくれます。世界のさまざまな民族は「それぞれ独特のしかたで夢を理解している」からです。

 今ひとつ、「文系の夢」研究には、ジクムント・フロイトの精神分析学とカール・ギュスターヴ・ユンクの分析心理学という、ふたつの大きな「夢解釈の家元」があります。

 それに対して、ボク自身は「眠りと夢をめぐる文化論」と銘打って、これらふたつの「家元」から解き放たれて、自由に「眠りと夢」を遊び、楽しむことを少しずつ、試みてみようと思っています。

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