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年を重ねるってこと。つまりは、世界が終わるってこと。
『今日で世界が終わるとしたら、何食べる?』
それを考える日が来たのだと思う。
……うーむ、言い過ぎたけど、年を重ねるってことはそれに準ずることな気がする。子供から大人になるってことをやけに重く受け止めている私だけど、東京に来てから、いや来る前からも、それをずっと考えている。
子どもっぽい悩みだな。
でも他人事ではないと思う。考えて損はない。きっと今だけだから。
『今日で世界が終わるとしたら』
少しだけ脱線した。冒頭の問いを考えるけど、何かを失うときっていうのが露骨に増えている。それは私にとって、「世界が終わる」という感覚。
例えば……
・友達と前みたいな頻度で遊べない。
・ゲームばかりしていたツケを払うときが来た。
・肉体が全盛期でここから衰えるしかない。
・2023年が終わる。
とかね。
世界の終わるスピードもまちまちだ。年単位から、時間単位まで。
足りなかったことに気づくor気付かなきゃいけないもそれに混ざっているね。もう終わってしまったものも。
後戻りのできない崩壊を「世界が終わる」って言葉を使ってる。強い言葉を使ったけど、間違ってるとは思わない。
そう、年を重ねると「世界が終わる」日が増えてくる。あるいは「終わらせないといけない」。
『終わるとしたら、何「食べる」?』
さて、世界がこれから終わっていく中、それに気づいたのなら、何をしようと思うのだろうか。気づいた私にはそれを選ぶ権利がある。幸せだね。
あっはっは、もちろん皮肉だ。…ソレダケジャナイケドネ。
そもそも食べたいと思うのだろうか……?
やりたいこと……。
そうだな。友だちと遊べなくなるのなら、どう接すればいいんだろう?
彼女とか、彼氏とかができるのは当たり前だ。われらはもう大人なのだから。今が肉体の最盛期なのだし。私が異端者だ。そうであるべきだとも思う。
そう思って友達に接しているのは、今のところ私だけなのだろうけど。次に会うときには、もう変質しているのは当たり前だ。会えない事だって。
それを嘆くことも一つの択。だが、気付いたのなら一つ我儘を通す権利があるだろう。選ぶことが重要だ。後悔しないために。
今回を最後にする…とか。食べるという言葉は比喩へとなったけど、直接言いたい言葉とか、今じゃないと言えない言葉を言わなくていいのかなとか思うようになる。
意外と自分って言いたいことがたくさんあるんだな。と今更思い出す。
それに対しての、私の答え。(たぶん)
『今日で世界が終わるのだとしたら、何食べる?』
それに対して、まだ答えは出てないけど、
一つ。その例えの中の例題として。
『今日、子どもで居られなくなるとしたら…何がしたい?』
変わっていった皆を見て、それを綺麗だと思いたい。
とか、最後に対して答えを出すことを重ねていかなきゃいけない気がする。
これから、年齢を重ねるにあたって。
食べ物なら…そうだな、思い出の籠った料理がたくさんある。
徹夜明けのカップラーメン。シェフの作るオムライス、ローストビーフ丼。母親の作るカレードリア。初めてピーマンを食べられるようになった肉詰めも捨て難い。祖母の焼きホッケ。
祖母はもう後期高齢者。母親は実家を出たらあまり会わなくなるだろう。シェフも働き始めたらきっと。
思い出がたくさんあるんだ。それがもう終わった世界のものだとしても、変わったものも、消えてしまったものも両方綺麗だと思いたい。
そのためには、私も誰かにいただいた、綺麗さに見合うだけの人生を送らねばならない。毎日を必死に生きて、それでいて後悔しない努力を続けること。誰かを否定しないためのドレスコード。
たくさんの物を受け取れるように。感じ取れるように。それに見合う人になるために。
『思い出も、今感じているものも綺麗だと思いたい。』
それがひとまず、私の答えで基準なのだろう。
そう感じられることが幸せだと思い続けて生きていたい。
番外編(世界が終わった日その①)
その① これから追加予定
その② これから追加予定
その③ これから追加予定
……毎日、終わっているようなものだけど。