大学受験のための映画講義 #7

こんにちは。與那覇開です。
3月になり、暖かく感じる日も増えてきましたね。また新学年を迎える時期でもあり、特に受験生となる高校三年生は、すでに春期講習などで受験モードに突入している生徒も多いことでしょう。1年間しっかり頑張りきってほしいものです。
さて、この「大学受験のための映画講義」も今回で第7回となりました(10回で完結予定)。このシリーズの基本的なコンセプトは「評論を通して映画がより深く鑑賞できる」というものです。評論で学んだ知識を映画のなかで描かれる物語に溶かしながら、評論の世界は実は身近な日常世界と結び付いているのだと感じてもらいたい、そう思って書いています。さて、第7回の今回のテーマは「新自由主義」です。新自由主義は経済や政治など今の世の中を大きく動かしているひとつの思想であり、現代社会を論じるときのひとつの下地になっています。今回は、この新自由主義について、ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』(イギリス 2019)から学んでいきましょう。

新自由主義とは何か

新自由主義とは何か。それは「市場原理主義に基づく競争を是とする経済思想」です。専門的な定義はあるかもしれませんが、別に論文を書くわけではありませんので、この記事を読む上では、これ以上の定義は必要ありません。日本では、50年〜70年代までうまく機能していた大量生産大量消費体制は消費飽和によって行き詰まりを見せ、高度成長が終焉に向かいました。そこで大量生産大量消費体制を代替する経済システムとして採用されたのが、新自由主義でした。経済に市場原理を導入すれば、競争が活性化され、再び経済成長は可能だ、というわけです。新自由主義はすべては市場に任せればよいという考え方なので、国が特定の産業を保護するなんて論外ですし、企業は国際競争で勝てるようにスリムな体制にする必要があります。つまり、企業内福祉を削減し、変形労働、派遣労働を積極的に活用し、あわよくば整理解雇も容易に行えるようにしたい。実際、新自由主義路線を選んだ国々では、大企業の法人税率を下げる一方で、人件費削減のための非正規雇用の拡大を後押ししてきました。結果、富めるものますます豊かになりましたが、貧しい人々の生活はさらに窮屈なものになり、高度成長の象徴でもあった中流の崩壊も進んだことで、格差社会が実現しました。今や日本では、労働人口に占める非正規雇用の割合は4割にも及んでいます。言うまでもないことですが、非正規雇用者の多くは決して良いとは言えない労働環境で働いています。低賃金に加え、昇給も賞与も退職金もなく、いつ契約が打ち切られるかわからない不安の日々のなか、生活を送っています。契約が終了するごとに職を転々とせざるをえないため、キャリアも身につきません。すべてを市場競争に任せる新自由主義システムは、企業にとってはハッピーかもしれませんが、労働者は不安的な生を強いられます。そうした余裕のない生活は、家族の在り方にも変化を及ぼすでしょう。『家族を想うとき』は、家族のために1日14時間の労働を週6勤務でこなす父親とその家族の物語です。皮肉なことに、父親が家族のために働けば働くほど、家族の崩壊が進んでいきます。彼らを追いつめているのは何なのか。現代の労働を考える上でも必見の映画です。

『家族を想うとき』あらすじ

ギグ・エコノミーという言葉があります。これは定まった就業時間をもたず、必要なときだけ労働者を募るという労働形態を指す言葉です。ふだん我々が想定する働き方というのは、1日8時間のフルタイム勤務です。会社に8時間拘束されるかわりにその代価をもらいます。時給という言葉が端的に表わしているように、この働き方では労働者は拘束される時間に見合うお金を受け取ることになります。ですから、一時仕事がなくて暇だったり、何もすることがなくても、それをもってその分の賃金が引かれることはありません。しかし、ギグ・エコノミーはそうではありません。これは労働者を必要なときに呼び出して、必要でなければ職場に来させないという労働の形です。まあ簡単にいえば8時間のフルタイム勤務ではなく、もっとも忙しい2時間のあいだだけ仕事に来てもらうといった調整弁的な働き方です。これは経営サイドからすれば大幅な人件費カットになってありがたいわけですが、労働者側からすれば全くお金を稼げませんし、第一これでは安定的な生活ができません。しかしイギリスでは、1998年に派遣労働者を含む非正規雇用の週あたりの基本労働時間を規定しない「ゼロ時間契約」が合法化されました。これを先ほども述べたように、経営サイドがその時の必要に応じて労働力を柔軟に調整できる制度です。またさらには派遣労働の配達員は個人事業主として契約を結ばされます。そうすると、配達に使う車の維持費や修理代は自己負担、おまけに雇用保険もなし、最低賃金も労働基準法も適用されません。これらは本来であれば、すべて会社が経費として負担すべきものですが、個人事業主という名のもとに労働者個人にすべてを押しつけるのです。雇う側にとって夢のような制度、これがまさに「ゼロ時間契約」なのです。映画『家族を想うとき』は、父親リッキーが宅配会社に個人事業主契約で採用されるところから始まります。リッキーは、ベテランの建設業として長年働いており、一時はマイホームを手にしていましたが、ノーザンロック銀行の破綻で家を売りに出すことになり、仕事までも失いました。その後、職を転々としながら、賃貸アパートで暮らしています。リッキー一家は、介護職の妻アビーと高校生の息子セブ、小学生の娘ライザの4人暮らし。リッキーは賃貸暮らしの現状に満足せず、もう一度マイホームを手に入れることを夢見て、個人事業主として宅配業にそのチャンスを見出します。ゼロ時間契約ですから、配達量によって報酬が決まります。そのため、リッキーは、マイホームを購入できるまで徹底的に働かなければならないと覚悟を決めます。リッキーの仕事ぶりは真面目で上司からも一目置かれますが、1日14時間労働の週6勤務の疲労は半端なものではありません。家族と過ごす時間がなくなっていきます。妻アビーもまた派遣の介護職として一日中働いています。アビーは仕事中に携帯電話で子供たちに「宿題するのよ」「夕食はテーブルの上にあるわ」などと話すのが基本的なコミュニケーションになっています。両親は非正規雇用ゆえに長時間労働が常態化しており、家でゆっくり子供たちとコミュニケーションを取る時間もないのです。息子のセブは高校生といえど、まだ多感な時期で色々と未熟です。芸術の才能に秀でていますが、いろいろと悪さもしてみたい。そんな年頃です。悪い仲間とつるみ、学校をサボったりしているのに父親は仕事が多忙でそのことに気づかない。大事な学校の三者面談にも仕事で行けないというあり様です。リッキーの立場からすれば、仕事に穴をあければ、信頼を失い、もう仕事を任せてもらえなくなります。個人事業主ゆえに有給の手段も使えず、ただただ配達業に精を出すのみです。息子の非行を知ったリッキーは息子を怒鳴り散らしますが、怒れば怒るほど、息子はますます非行に走るという悪循環。スプレーアート、暴力、万引き等々。これを機に家では父親と息子の喧嘩が絶えなくなります。リッキーは息子に「全部お前のせいだ。お前がいつもトラブルを持ち込んでくる」と言います。母親アビーは二人を仲裁し、娘のライザは泣きながらその様子を見つめているだけです。その後、息子セブは家出し、家族が寝静まった深夜に家に戻り、壁に飾ってある大切な家族の写真をスプレーで塗りつぶしてしまいます。朝起きた父親は家族写真がめちゃくちゃにされているのを見て愕然としますが、もうひとつ、大切なものがなくなっていることに気づきます。それは宅配仕事をするために必要なバンのキーでした。キーがないと仕事ができません。きっと息子セブが持って行ったに違いない。なんであいつはいつも俺の邪魔ばかりするんだ。怒り心頭のリッキーですが、どうしても仕事はキャンセルできない。突然のキャンセルは、収入が無くなるどころか、ペナルティを払わないといけないからです。俺は家族をもっと幸せにしたいだけなんだ、なのになんでこうなるんだ-、リッキーの叫びです。家族のために働けば働くほど、家族がどんどん壊れていってしまう。はたして、リッキー一家は家族としての絆をもう一度取り戻すことができるのでしょうか。

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自己責任と恥辱

新自由主義は、経費を節減し、利潤を増大させる経済システムですが、このシステムが上手くいくためには、資本主義のゲームに参加する人々の多くがこの新自由主義の論理を内面化する必要があります。しかし、中流を没落させ、深刻な格差社会をもたらす新自由主義の論理をどうやって受け入れるのでしょうか。新自由主義システムが登場したころ、自己責任という言葉がよく聞かれるようになりました。新自由主義は、市場原理に基づくフェアな競争であり、そこでの敗者は努力を怠った怠け者だとして自己責任だとされたのです。しかし、本当に市場競争での敗者は自己責任なのでしょうか。市場の公平性を担保したところで、人々の競争のスタートラインを厳密に揃えることはできません。経済資本も家庭資本も、あるいは学力や人脈など、人によって大きく異なります。そして、こうした要素もまた市場での活動を大きく規定していくものです。あまり有名な人ではありませんが、エリ・ザレツキーという米国の哲学者がいます。彼によれば、主体性なる観念は、西欧人の「気の短さ」から来ているといいます。効率こそが至上命題の資本主義システムにおいては、いつまでたってもぐずぐずして決められない主体など邪魔なものでしかありません。そのため、いち早く判断できた人物を「主体性」のある人間として祭り上げるというわけです。先ほど見たように、市場競争の勝敗には、そこに参加する人々の経済資本の格差やそれを容認する社会構造など多くの要素が絡まり合っています。しかし、新自由主義はそうした周囲の複合的な要素を断ち切り、責任を個人に還元します。個人に責任を取らせるために、主体性が称揚されるのです。本来であれば、社会の構造こそ問わなければいけないのに、それの免責として個人に自己責任を持つように促すわけです。以下、2017年埼玉大学・現代文からの引用です。

「社会変動や社会状況の変化によって構造的に生み出されてくる問題が、それを構造的に解決することが困難であるが故に、個人の自己決定に委ねられるという傾向である。ベックの言葉を借りれば、このような状況において人生を営むことは、社会システムの中で構造的に生み出される問題や矛盾を、個々人が個々の人生の中で解決していく営みとなる。

(澤井敦「『第二の近代化』と液状不安―『個人化』の何が新しいのか」・『三田評論』第一二〇一号所収・慶應技術大学出版会)

たしかにリッキーは家族のために身を粉にして働いています。それは間違いない。しかし家族のための仕事が多忙になりすぎて、家族と一緒に過ごす時間が減り、息子からのサインを見落としてしまいます。本来であれば家庭のなかで解決できた問題であるかもしれないのに、家族間でじっくり話し合う余裕もないまま、息子の非行だけがエスカレートしていきます。こうした構造を大きく捉えれば、リッキー一家を襲う家庭崩壊は、息子セブの非行というより、家族の問題に余裕をもって対処させない社会構造により大きな問題があるといえます。しかし、残念ながらリッキーにはそれが見えていない。家族の不和の原因は息子の非行にあるとして、責任を属人化してしまっているからです。とりわけ注目すべきなのは、こうした自己責任は恥辱という情動と強く結びついていることです。たとえば植民地の公娼制度においては本来、国家が性の売買を管理することの恥、性を買う男側の恥など、いくつかの恥辱が輻輳化していますが、それらは捨象され、性を自発的に売る娼婦の能動性のみに焦点があてられる傾向があります。新自由主義もまた、人々に過酷な競争を強い、貧困という構造的な暴力を押しつける自らの恥を、「努力不足」「無能」というレッテルを用いて、個人の恥に転化しようとします。こうした負のレッテルをスティグマと言いますが、困窮した経済弱者ですらが自らが落伍者であるという存在を内面化していて、生活保護申請を躊躇うというような事態が発生しています。こうした新自由主義の破廉恥な責任転嫁は当然、家族にも及んでいます。日本でも子どもが一人で夕食を食べる「孤食」が社会問題になったことがありますが、子どもひとりで食事させるなんてなんてひどいんだ、とその批判がその家族に向くことはあっても、両親を夜遅くまで帰宅させない企業の問題にされることはほとんどありません。新自由主義体制の下で、家族は社会の矛盾を引き受ける存在となっています。労働者の生が不安定化しているのに、彼らを支える社会のセーフティネットは縮小している。こうしたなかで家族は、新自由主義の暴力に対する最終的な拠り所です。しかし自己責任を内面化している人ほど、こうした構造的矛盾が目に見えていません。リッキーは家族が壊れつつあるのを感じながら、妻アビーに「俺たちはどうしてこうなったのかな」と言います。アビーもそれに対して「よく分からない」と答えます。つまり、この父親と母親は、家族を追い込んでいるものの正体を本当に分かっていないです。金を稼ぐためにあくせく働いている人ほど、自分たちの苦境の本当の原因がどこにあるか分かっていません。さて、リッキーが血眼になって探しているバンのキーですが、実は娘ライザがもっていたのです。ライザは直感的に家族を苦しめているのは、父親の宅配業であると分かったのでした。ライザは言います。「私はただ前みたいな家族に戻りたくて。キーさえなくなれば、戻れると思っていたの」。ただ娘のライザだけが、家族を追い込む本当の敵の正体が分かっていたのです。

【参考文献】
町山智浩『それでも映画は「格差」を描く』インターナショナル新書
是枝裕和、ケン・ローチ『家族と社会が壊れるとき』NHK出版新書
仲正昌樹『不自由論』ちくま新書
内藤千珠子「予定された損傷を疑う-『奴隷小説』『路上のX』と現代日本の帝国的暴力」『思想』2020年11月号1159巻 岩波書店

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