大学受験のための映画講義#4
こんにちは。與那覇開です。大学受験のための映画講義シリーズの4回目です。
ところで、みなさんは、1942年に起きた朝鮮語学会事件をご存じでしょうか? 私も今回の映画を見るまでは、この事件の存在を知りませんでした。この事件の背景を少し説明しましょう。1940年頃、戦局の悪化にともない、帝国日本の朝鮮統治が一段と強まっていたようです。この時期には朝鮮で創氏改名や教育現場での日本語使用など、朝鮮人の民族精神を消滅させる政策が行なわれるようになっていました。そんな中、母国語である朝鮮語が消滅することを憂慮した朝鮮人学者たちがウリマル(我らの言葉)を守ろうと、本格的な朝鮮語大辞典を完成させようとします。しかし、朝鮮総督府は、朝鮮語学会の活動が朝鮮独立の機運を高めることを危惧し、その活動の妨害、抑圧に乗り出します。映画で描かれているところでは、官憲の目から逃れるため、上映終了後の映画館で学会の公聴会が行なわれているところを、憲兵が襲撃し、取り締まります。この事件で、二人の朝鮮人が拷問死しました。この事件からはいくつか考えるべきことがあります。なぜ朝鮮総督府は朝鮮語学会の活動を妨害したのでしょうか。そして、朝鮮語学会はなぜウリマルを守ろうとしたのでしょうか。そして、我々にとって言葉とは何なのでしょうか。今回は、朝鮮語学会事件を扱った『マルモイ』(韓国 2019)を取り上げて、そうした問題を考えていきたいと思います。
あらすじ
舞台は、1940年代の京城(日本統治時代の韓国・ソウルの呼称)。当時の日本は、日中戦争が泥沼化し、日米開戦が迫っている頃ですが、植民地統治下の朝鮮は戦争の被害もなく、穏やかな日々を送っています。『マルモイ』の主人公・パンス(ユ・ヘジン)は、無教養で、文盲で、前科持ちの貧乏男ですが、二人の子供を心から愛している優しいお父さんです。パンス役を演じたユ・へジンという役者は、韓国映画ファンなら知らぬ人はいないというくらい有名人ですが、とにかく演技にクセがあって、人情的な部分とコミカルさのバランスが絶妙で、とても素晴らしい役者です。『スパイなやつら』(2012)を観たらハイレベルなアクションもできると分かって、本当にスーパー役者だなぁと感嘆しました。さて、仕事をクビになったパンスは、息子の学費をなんとか工面しようと、盗みを働きます。駅構内を物色しながら標的を定めたのがジョンファン(ユン・ゲサン)という朝鮮語学会の代表を務める男です。パンスはジョンファンから、パンスにとって何の意味もない朝鮮語の資料が入った鞄を盗みますが、結局は失敗。しかし、そのことがきっかけとなってパンスは朝鮮語学会に雑用係として働くことになります。とはいっても、無教養なパンスは学会がやっている仕事に興味はありません。地下書庫に所蔵されている膨大な朝鮮語の資料を見て、「金なら分かるが言葉なんか集めて何になるんだ」という始末です。当時の朝鮮では、創氏改名が奨励され、教育現場でも日本語の使用が強要されていたようです。映画の中では、日本語しか話せない朝鮮人の子供たちも出てきます。朝鮮語が消滅させられようとしている中、ジョンファンは朝鮮各地の方言を収集し、朝鮮語の大辞典を作らなければならないという使命感を強く持つようになりました。そして、パンスもまた、学会のひとたちとの交流を通して、徐々にウリマルを大事に思う意識が芽生えてきます。さらには、パンスの子供たちの名前が、学校側の都合でキムから金山という日本名に変更されたことで、ウリマルを守ろうとする学会の使命を理解するようになります。しかしながら、朝鮮語学会は常に朝鮮総督府に監視されており、公聴会すらまともに開けません。そこで、官憲の目を避けるため上映終了後の映画館で朝鮮語の学者を集めて公聴会を開くことで、着々と辞書作りを進めていきました。しかし、事態を知った朝鮮総督府は憲兵を派遣し、公聴会を襲撃させます。そこで、朝鮮人の学者が続々としょっぴかれる中、寸前のところで、ジョンファンは資料を抱えて、パンスと一緒に裏口から逃げます。必死になって逃げるも、待ち伏せしていた憲兵から発砲をくらい、ジョンファンは負傷。もう逃げきれないと悟ったジョンファンは、最後の頼みの綱としてパンスに資料の入った鞄を預けるのでした。
言葉と意味
言葉とはなにか、を本格的に論じ出すと途方もなくなってしまうのですが、ひとまず、単純に「言葉とはものの呼び名である」と考えてみましょう。たとえば、林檎というものがあり、それにリンゴという名前をつける。あるいは、机というものがあり、それにツクエという名前をつける。非常に明快でわかりやすい説明ですね。ちなみに、この考え方をラベリング言語観といいます。言葉は、名前をものに貼るようなものだというわけですね。しかし、このラベリング言語観には問題があります。というのも、全ての言葉が、それに対応する現物を持つわけではないからです。たとえば、「しかし」、「だから」といった接続詞に対応する現物はあるでしょうか。あるいは、「500歳の幼児」などという現実には存在しないものでも言葉の上では表すことができることはどう考えたらよいでしょうか。そして、なにより、言語文化によって事物と名称の対応は一致していません。日本語では、蝶と蛾を区別しますが、フランス語では、区別せず、どちらもパピヨンと呼ぶのは有名です。私は去年あたりから本格的に韓国語を勉強したのですが、韓国語における親族呼称が多様なことに驚きました。日本語なら「叔父さん」で済むところを、韓国語では、큰아버지(父の兄の方のおじさん)、작은아버지(父の弟のほうのおじさん)と区別します。さらには、結婚してない叔父さんの場合は、삼촌と言ってさらに区別するようです。他にも「姉」には누나(男性が呼ぶ場合)、언니(女性が呼ぶ場合)という二つの呼び方がありますし、兄にも、형(男性から呼ぶ場合)、오빠(女性から呼ぶ場合)という風に二つの呼び方があります。これは、一体何を意味しているでしょうか? このことを記号論の観点から見てみましょう。記号論では、言葉の意味は、語が単体で担うものではなく、体系のなかで意味づけられると考えます。つまり、別の言葉との差異によって言葉は意味を持つのです。たとえば、兄という概念は、弟という概念がないと成立しません。兄の言葉の意味は、弟という言葉との差異の上で成立しているわけです。ですから、赤色がどういう色なのかを説明するとき、赤いものを持ってきて、「これも赤だ」「それも赤だ」と説明するより、白やら黒やら青やら緑やらをもってきて、他の色との差異を示した上で説明した方が、赤色とは何なのかをクリアに理解できるでしょう。次の文章を読んでみましょう。
言葉は単独では意味を持ちえず、差異の体系の中ではじめて意味を持ちます。言葉の意味が差異の体系の中に位置づけられているとうことは、私たちが、無秩序な世界に言葉で切れ目を作り、差異を作っているということです。そして、その差異の体系は、それぞれの言語文化によって異なります。ミクロネシアの地方では、年がら年中雨が降る地域があるようですが、そこでは雨に関する名前が何十種類もあるそうです。日常的に雨と接する文化だからこそ、弱い雨、強い雨、午前に降る雨、午後に降る雨、肌を突き刺すように降る雨、生暖かい雨…というように雨という現象にたくさんの切れ目を入れているのです。言語論の文章では、言葉で切れ目を作ることを分節を言いますが、私たちは分節を通して、世界に意味を与え、秩序を作っていきます。そうであれば、言葉というのは、まさにそのひとたちにとっての世界の見え方であり、かけがえのない文化のひとつと言えるでしょう。ですから、言葉がひとつ消えるということは、単なるコミュニケーションの道具がひとつなくなるということではなく、世界を解釈する独自の目線が消えてなくなってしまうということです。ハンナ・アレントはこう述べます。
記号からウリマルへ
言葉は、ただのコミュニケーションの道具ではありません。私たちの世界観をつくっている生の根源です。だからこそ、朝鮮語学会は必死でウリマルを守ろうとしたのでしょう。言葉の死は、民族の死を意味するからです。朝鮮総督府もまたそのことを分かっていたからこそ、弾圧に乗り出したのです。朝鮮語学会と朝鮮総督府は、言葉を守る側と奪う側に位置しており、対立的な関係ですが、言葉とは民族精神であるという考えは共通しています。そんな中、パンスはその争いの蚊帳の外にいます。もともとパンスは、朝鮮語学会の使命も朝鮮語が虐げられていることも興味がありませんでした。映画のなかで、学会の女性職員が「今は、どんどん日本語に置き換わっている。朝鮮語のトシラク(도시락)ではなく、みんな、日本語の『弁当』って言葉を使ってるわ」という嘆く場面があります。それに対して、パンスは、「トシラクでも弁当でも、腹が満たされればそれでいい」と答えます。この時のパンスにとって、言葉はただの記号でしかありません。パンスにとって、腹が膨れることの方が大事で、その際、トシラクと呼ぼうと弁当と呼ぼうと、どちらでもいいではないかと思っているわけです。パンスのこの即物的な考えは実に重要なことを教えてくれます。パンスの言う通り、言葉は記号的なものでしかありません。たしかに赤い果物をリンゴと呼ぶことに論理的必然性はありません。だから、パンスの言う通り、腹が満たされることが大事であって、呼び名などどうでもいいともいえます。しかし、偶然の結びつきでしかないものに必然性を見出すのが人間ではないでしょうか。トシラクはトシラクでなければならない。偶然を必然と結びつけることを愚かだと決めつけるのは間違いだと思います。偶然を必然と結びつけるこの論理の飛躍こそ、文化と呼べるものであり、生の根源に触れるものだからです。そういう意味で、言葉は決して記号ではない。言葉は命をかけるほどのものです。そしてパンスもまた、朝鮮語学会の人たちとの交流を通じて、偶然の結びつきでしかない言葉の記号性に必然性を見出していきます。文盲のパンスが寝る間も惜しんでハングル文字を勉強し、身の回りにある看板の字を嬉しそうに解読する場面があります。これは単純に文字を読めたという喜びを超えて、自分の知っている言葉が社会に根付いていることを実感する、言葉の必然性に直面した重要な場面だといえます。このとき、パンスにとって、言葉は記号であることをやめ、ウリマルになったといえます。この映画は、日本人からすると素直に楽しかったと言えるものではないかもしれません。しかし、『マルモイ』は、断じて日本を糾弾するような反日映画ではありません。権力と抵抗の物語ではありますが、映画の価値軸となっているのは、歴史や文化を守っているのは、実は名もなき民衆によってであるという普遍的なメッセージなのです。(終)