以蔵さんの話-1
まず、良く言われている…というかwikiにまで書かれて中々修正されない、「足軽」だったという点について。
岡田以蔵は足軽ではありません。これは創作です。
おそらく、創作の設定とするには少々複雑な土佐の身分制度を、ひと言で書くにはどうしたらいいかな~と考えられて、この言葉が選ばれたのでしょうね。
岡田以蔵は郷士。正確には郷士の倅。郷士株を継いでいませんから…
この郷士ってのが中々のクセモノで、やれ身分制度がどうの、虐げられていたのとよく書かれていますね。
では土佐での郷士ってどんな人達だったのか。簡単にいうと、在郷小規模領主の事です。農地開発、農地運営、加えて武芸を磨く事を奨励されている人々です。
どうしたら郷士になれたのか。郷士株を取得する事です。
以蔵の家は、18世紀中頃にはそこそこ財力を持つ農家でした。18世紀後半になり、他の郷士から郷士株を譲り受けます。譲り受けるというか買い取るのですね。郷士は武士身分ですので、財力をもってこれを取得した家となります。
お金で身分を買った家なのか…と思われがちですが、これは当時全く特別な事ではありませんでした。坂本龍馬の家も、元は商家であったのを、郷士株を取得して分家していますね。当時、領知経営に失敗したり、他で借財を拵えて郷士株=土地を手放さなければいけない郷士は珍しくありませんでした。なお手放した人々は地下浪人という身分となり、経営する領知こそ失ったものの、名字帯刀の権利は保持します。そして後述しますが、郷士と共に土佐国内の防衛戦力と位置付けられました。
防衛戦力って何をするのか?土佐は外洋に面した長い海岸線のある国です。ここには実は外国船が結構漂着します。また隣の藩と領土で悶着を起こしていたりもします。そういう時に駆り出される戦力が必要でした。
また郷士の成り立ちにも関係していますが、関ヶ原の戦いの戦功…戦功…?により土佐に入る事となった山内家。彼らは6万石程度の領知から、実質20万石の土佐へ来た人々です。人手、戦力が圧倒的に足りません。本来ならば家老の下に家臣団を形成したかったのですが、地力に乏しい上に幕府から色々普請を命ぜられ、土佐に入り50年も経たずに借金だらけになります。家臣団にも直雇用する余力なんてありません。なのに幕府からは「これくらいの戦力を保持すること」との命令も下されていました。
長くなりましたので2へ続きます。郷士の話はめんどくさいのですが、ここを理解しないと、岡田以蔵はいつまでたっても足軽の誤解をうけたままなので…