以蔵さんの話-2

さて困った山内家は、戦力保持および新田開発で一石二鳥!という、「郷士」というシステムを考えます。自分達が入る前に長宗我部氏の元で働いていた家臣団、彼らはほとんどが帰農していましたが、ここに声をかける事にしたのです。武士身分に戻らないか、そのかわり新田開発を進めてくれ…募集したら結構来るわ来るわ。ちょっと多すぎないか?となった時、こうした改革を行っていた2代藩主が死去、政策の音頭を取っていた野中兼山は失脚します。郷士システムも中ぶらりんになってしまいますが、すごく良く出来たシステムだったので、後に続く中枢部も残したいと考えていました。

しかしここでまたしても横やりが。何と戦力保持を命じた幕府が、「在地戦力が何だか多すぎないか…?」と難色を示してきたそうです。これに困った中枢部、一番は新田開発と経営を行ってほしいけど、戦力も保持したい。どう解決したかというと、山内家中で馬廻と同じような地位にいた郷士を、ひとつ下のランクに落としました。こうする事により、当家はそんなに戦力保持していませんよ…とアピールしたのです。

それまで郷士は士格と呼ばれる階級に属していました。藩主の近くで、奉行職などの管理職を務め、家の保持がそこそこ保障される人々です。ここに居た郷士を「軽格」のトップに据えました。軽格とは士格の下で実務を行う人々が属する階級です。足軽もここに属しますが、軽格の中でも下から数えた方が早い。

じゃあ郷士は軽格のトップなのだから、中間管理職のような立場になったのかな?とも思いますがそれも違う。彼らは自らが望む場合以外、藩の仕事は行いません。彼らの本分は領知経営。加えて藩から俸禄が出る訳ではなく、自分達の領知のアガリで生活をしています。冒頭で小規模領主だとした理由はここにあります。山内家には仕えないけれど山内氏の支配を受ける武士階級で、自分達で管理できる土地を所持する人々。これが郷士です。ちなみに藩に税金をちゃんと納めていますが、年貢と違い厳しい数字ではありませんでした。

郷士それぞれが持つ土地には違いがありますが、基本は三十石のアガリがある土地を持つことでした。しかし以蔵や龍馬の頃には、十~二十石程度の郷士株も少なくありませんでした。加えて山がちな土佐の地形、どうしても平地が少ない地域では九石で名乗る事もありました。

さて、長くなりましたが、以蔵が足軽ではない事について。父親がずっと郷士株を所持しておりますので、足軽の家ではないのです。足軽は役職ではなく身分のひとつなので…

足軽とされた原因はもう一つ考えられますが、これはまた次の記事で。

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