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「神仏習合と純化する世界」という話

 あけましておめでとうございます。みなさま、正月はいかがお過ごしでしょうか。私は、特に普段と変わらず、本でも読みながらのんびりと過ごしております。まだ、しばらくは冷え込むようなのでみなさまもお体にはお気を付けください。

 さて、新年の挨拶はこの辺で終わらせてさっそく本題に入っていこうと思います。

 今回のテーマは「何でもわかりやすいものを求めるのはやめましょう」ということです。なぜ「わかりやすい」を求めない方が良いのか、思想家内田樹さんの著書『サル化する世界』と『日本習合論』をもとに一緒に見てゆきましょう。


日本文化の雑種性と日本辺境論

 日本はユーラシア大陸の東の端にある島国です。もうこれより先は海しかない辺境の地です。だから、大陸・半島・南方から到来してきた制度文物はここ日本に貯蔵されてゆく。捨てられないでいると、それがどんどん倉庫に積み上げられ、いずれ「ハイブリッド」ができる。コーヒーと牛乳でコーヒー牛乳ができて、カレーと蕎麦でカレー蕎麦が出来るように。先にあったものを排除するのではなく、その上に色々なものが混ざり合い、新しいものがうまれる。

 日本の文化は、クリスマスだとか初詣だとか、仏教的な葬式だとか、宗教的な文化の混ざり合いや、日本語のロックミュージックや伝統舞踊とミュージカルの融合など、とにかく「雑種的」です。日本の文化の特徴が雑種的だということは、すでに1956年に加藤周一が指摘しておりました。

 加藤の雑種文化論の根本的テーゼは「英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種文化の典型ではないかということだ」という一言に集約されます。


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