『優しさのすべて』観てきたよ 〰「身体」という呪文でチチンプイ!にはもう頼らない の巻 その3〰
前回までのあらすじ:映画に於ける観客の身体と作り手の身体について考えたコオニユリ。そしていよいよ『優しさのすべて』の居心地の悪さについて、整理してみようと試みるのだった。
ドゥルーズという補助線
最終回と言ってましたが嘘でした。泣きの一回、いや二回か。書いてみないと分からん、ごめん。
さて、『優しさのすべて』のマアサのクロースアップのことでした。
何か異様な感じが冒頭からする。それが何なのかを考えてみようとしたところで、力尽きちゃった。
さて、これまで考えてきた「身体」について思い出しながら次の発言を読んでみて
ふむ。あたしが感じた居心地の悪さというか、異様な感じはとりあえず、この「名付け難きもの」とは言えそうである。
でも、理論上すべての映画にそれはあてはまるし、論理的に考えることを放棄することになっちゃう。もうちょっと考えてみよう。
この発言はドゥルーズが言う「ヴィジビリティ」を巡って、発せられた意見なのね。で、そのヴィジビリティっていうのはなにかっていうと、ドゥルーズがフランシス・ベーコンの絵画をパウル・クレーを引用するかたちで名付けた概念なんだけど、絵画っていうのはインヴィジブルなものをヴィジブルにするのではなくて、ヴィジブルなもののヴィジビリティを表現する。っていう文脈で使うのね。
もう少しはっきりドゥルーズ自身が言ってるのは、絵画は見えるものをもう一度与え、見えるものを再現するのではなく、「見えない力を見える」ようにする、って言ってる。あたしの解釈で言うとこの力がヴィジブルなもののヴィジビリティなんだと思うんだよね。
ベーコンの絵って、何かが描かれているのは分かるし、タイトルもついてるから、類推して鑑賞することはできるんだけど、はっきりと何が描かれているかが分からない。ひたすら鑑賞者を不安にさせる。
力そのものは視覚的に表象できない、けれどその力は確かに絵画に描かれている、と言っても良いかもしれない。ベーコンの絵画はその「ヴィジビリティ」を体験する場を作っているだけ。
で、このヴィジビリティというか「見えない力」を『優しさのすべて』は描いている、とあたしは思う。だから居心地が悪いの。
このヴィジビリティはどの映画作品にもあるわけじゃない。なぜなら居心地が悪いから。むしろ安定した場所で安心して映画を観るためにはヴィジビリティは抑制されなければいけない。
これはドゥルーズの「運動イメージ」から「時間イメージ」の移行についてのインタビューでの発言なんだけど、彼はその移行をイタリアのネオレアリズモに重きを置いて書いているのね。そこで起こったことは、映画の持つ運動の感覚が「光記号」と「音声記号」に席を明け渡した、とされる。
つまりね、ヴィジビリティ満載の初期映画、あるいは古典的映画が孕んでいた運動が、ある意味「光学的音声的テクスト」として安定して観られるようになった、という風に読めるのよ。注意しなきゃいけないのは、映画が透明な物語になったっていうことじゃないの。もうそれは1910年代半ばには完成してる。そうではなくて、身体的な位相、情動的な位相になんらかの変化が起こったっていうことなんだよね。
で、戦前のドゥルーズの解釈を巡って、戦前の古典的映画についてこんなことが述べられている
この「二次平面にとどまる運動ではなく、二次平面から見ている者のほうへはみ出してくる、突出してくるもの」っていうのがあたしが『優しさのすべて』に感じた居心地の悪さの正体なんだろう。ってのが今のところのあたしの答え。(身体シェーマっていうのはメルロ=ポンティの概念ね、あまり気にしないで)
じゃあいかにしてそれが可能になったのか?
この平面のことを理解するために、映画以前の絵画や演劇を研究し、「タブロー(tableau)」ー従来の美術で言う「絵画」という意味だけでなく演劇における「景」(幕と場とは別種の全体を分ける構成単位のことね、第10景とかって使う)、建築における「抱(だ)き」(開口部の左右の壁の外側にでてる厚みのことね)までもひっくるめた言葉ーとして解釈しようとしたのが、ベン・ブルースターとリー・ジェイコブスだった。なぜか邦訳ないんだけど"Theatre to Cinema: Stage Pictorialism and the Early Feature Film"の中で彼らは「タブロー」を物語の因果性、時間的・空間的推移、観客が鑑賞する時間、記号論的な意味作用の方向性なんかが含まれた立体的に表象されたイメージとして定義してる。
映される身体 立体的な表象の要素①
まず、立体的な表象の第一の要素ね。
当たり前だけど、フィクション映画における登場人物は俳優によって演じられている。マアサは二田絢乃が演じているよね。
ここで物語世界に存在論的価値を認める場合(本当に『優しさのすべて』の世界が実在するとしたらってことね。現代の物語研究では実在するのを前提として進められていることが多い。)二田の身体はマアサの身体を表象している、と言える。
ここに演出が必要となる。
でね、
よくリアルな演技って言われるけど、そのリアルってなんだろう?
これまでのオーソドックスな映画史解釈だと、その所謂「リアルな演技」法を確立したと言われるのがD・W・グリフィス。ハリウッドの父とも呼ばれる。で、何が変わったかと言われると、演劇的な誇張した演技から、映画的な自然な演技に演出法を改革したとされる。
まぁ映画史を学ぶと三回目くらいの講義でいやというほど聞かされる。
でもね、
グリフィスの映画と言えばこの俳優!の代表格であるリリアン・ギッシュ(彼女は映画のファーストレディと呼ばれる)を良く観てみると、演劇から舞台演芸=ヴォードヴィルショーに至るまで、隣接するジャンルの身体イメージをかなり取り込んでいることが分かる。
だから今の時代から観るとリアルな演技とは言い難い。
じゃあなぜそれがリアルとされたのか?
これはそもそもの問い自体が逆であって、それがリアリティのある身体として観客に受け止められたから、そうなったわけ。
つまりスクリーンに映る身体へのリアリティというのは時代によって変わる。それはテクノロジーの制約(初期映画から古典映画の時期で言えば、レンズの性能、フィルムの感度、照明の明るさ)がもちろんあるし、広い意味での芸術や文化の変化がある。
で、あたしが思うに、現代において観客の身体をも巻き込んでいく、つまりヴィジビリティのある演出が施された身体というのは、リアルさを欠いているとみなされる。
『優しさのすべて』ではじめにあたしが受けた、どこかずれている感じ、地上であれ地下であれ、あたしたちがリアルとしている世界とは違う高さ、あるいは低さを漂っている雰囲気はそこにある。
指鉄砲を撃ちあいながら夜の街を走り抜ける、踊るように商店街を軽やかに歩く。
雑に言ってしまえば、そんなやついないでしょ感。
あえて、その演出を安達監督は選んだ。
ところでメソッド演技(Method acting)というものがある。1940-50年代にリー・ストラスバーグって人が考えた演技理論なんだけどね。
より、リアルに、より現実に近い身体表現を求めるために、担当する役柄について徹底的に研究するわけ。劇中の感情や状況については、俳優自身の経験と役柄がおかれたシチュエーションを追体験して事前に演技プランを練る。代表的な俳優としてはマーロン・ブランドがあげられることが多い。その他沢山いるけど。いすぎてあげるときりがない。
この演技理論は、演者にかなりの負担を強いる。それで悲惨な結末を迎えてしまった俳優も多い。
で、だ。
この映画、すなわち『ハッピーアワー』Happy Hour(2015)監督:濱口竜介の成立過程、そして演出を思い出して欲しい。
あたしは安達監督が選び出した演出と濱口監督のそれが、逆のベクトルを向いていると思うの。
そして、それは演出のみならず、「映画」そのものの二人の考え方の違いなのだろう。
しかし
同時に同じ問題に向き合っている。
次回はその話から始めたい。
キーワードは重力と内臓=はらわただ。
そして映像と音の問題、虚構とフィクションの問題、について考えて
いかに『優しさのすべて』が立体的な表象たりえたかを書いてみたい。
週末までには書き終えたいよー(泣)
とりあえず、おやすみ世界
コオニユリ