プリンセス・クルセイド #5 【魅惑のプリンセス】 1

 『敗北は常に尾を引く。いかに気丈に見える人間でも、時には涙に暮れ、ベッドから起き上がれないこともあるだろう。人生とはそういうものだ』

 父の蔵書の一つである『剣聖――言葉の剣――』の132ページに記載された名言を横目に見ながら、アンバーはしおりのように挟まっていたメモを取り出した。

『アンバーへ。このまま負けてはいられませんわ! 闘いに行ってきます』

「もう……イキシアったら」

 アンバーはメモを律儀に元のページに挟み、ため息交じりに呟いた。目の前では、床の上に布団が散らばっている。どうやらイキシアは、例え負けても泣きぬれる気などさらさらないらしく、朝一番に寝室を飛び出してプリンセス・クルセイドに出かけていったようだ。メモの内容を信じるならば、行き先はおそらくメノウのいるところだろう。

「でも……どこにいるのか知ってるのかな?」

 アンバーは部屋を片付け始めながら考えを巡らせた。イキシアの持つこの街の土地勘、メノウに関する知識。そういった情報を一つひとつ吟味しながら、枕を元の位置に戻す頃には結論を出した。

「知らないだろうなあ……」

 完璧に整えられたベッドを愛しげに一度撫でつけてから、アンバーは寝室を出た。狭い廊下を少し歩いてリビングに進入し、そのまま玄関へと向かう。その途中の台所で、キッチンタイマーがけたたましく鳴り響いた。

「あ~……忘れてた」

 アンバーは方向転換し、キッチンの中のオーブンに向かった。オーブンから取り出したのは、焼きたてのアップルパイだ。今日の朝食にと、イキシアとの2人分をあらかじめ焼いていたのだが、今すぐには食べられそうもない。アンバーは食卓にパイを置くと、キッチンから鉛筆ほどの長さの杖を持ち出し、パイに向けて一振りした。すると、杖の先から光が飛び出し、膜のように広がったかと思うと、そのままパイの上に覆いかぶさった。

「これでよし」

 アンバーはそう呟くと、一旦杖を胸ポケットにしまった。この魔術は食べ物の温度などの状態を保存する魔術で、これをかけておけば外気にさらしていても食べ物が冷めたり傷んだりすることはない。バイタル由来の魔術で、習得には若干の努力を要するが、このように限られた範囲ならば、アンバーくらいの年頃の人間には造作も無いことだ。しかしそれでも、効果は八時間程度が限度だろう。人探しには十分な時間かもしれないが、イキシアが何か事件にでも巻き込まれていたら厄介だ。アンバーは速やかに玄関へと向かい、戸を開けて外に出た。そして左右を見渡し、通りのどちら側から探し始めるか見当をつける。

「う~ん……左かなあ?」

 左手には城が見えている。メノウが王家に関係しているというアンバーの見立てが正しいならば、イキシアはこちらに向かうべきだ。しかし、イキシアがメノウに関してアンバーと同じ見解であるとは限らない。昨日はなんとなく、イキシアにメノウの話はできなかった。他方、右は王都への入口へと続いている。道中には人が倒れていて、石畳の道に彩りを添えていた。

「……え? 人?」

 アンバーは異変に気付くと、倒れている人の隣に跪いた。薄紫色の長い髪をしたその人は、うつ伏せの形で突っ伏したまま動かない。

「大丈夫ですか!? 立てますか?」

「うう……」

 声を掛けて肩を叩くと、呻き声とともにその人物が頭をもたげた。

「あ、貴女は……?」

 倒れていたのは女性だった。肌は色白で鼻がすっきりと高く、艶のある唇に、金色の瞳。瞳の前には乱れた薄紫色の髪がかかっている。

「私? 私は……」

 アンバーは思わず声を詰まらせた。あまりに見目麗しい女性の姿に、一瞬だけ自分のことが分からなくなってしまった。

「うっ……お腹が……」

 アンバーが答えられずにいると、女性は不意に自分の腹を押さえて苦しみ始めた。

「どうしたんですか! お腹が痛いんですか?」

 アンバーは自らも女性の腹に手を置いた。

「……お腹が空いたんです」

「……へ? 今、なんて?」

 アンバーが聞き返したまさにその時、地獄の底から聞こえるような重低音が彼女の腹の底から鳴り響いた。

「……おそらくは3日ほど、何も食べていなくて……」

 女性が形の良い眉をひそませながら、無念そうに呟いた。その色白の肌は、よくみると少し青ざめ、こころなしか頬もこけ気味に見える。

「そう……そうなんですか!? じゃあ、なんとかしないと!」

 アンバーは状況を呑み込めずにいたが、事態の深刻さだけはくみ取り、女性を立ち上がらせようとした。自分の身体を女性の下に入れ、強引に背中に背負おうとすると、アンバーは2つのことに気が付いた。女性は背が高く、胸が大きい。明らかに成熟した身体の女性を子供のように背負いながら、長い脚だけはなんとか動かせる彼女とともに、アンバーは家の中へと引き返した。

「あの、すみません……見も知らぬ方にご迷惑をおかけして……」

「いいえ、あんなところで放っておけませんから」

 リビングへの道中で女性と会話しながら、アンバーは香ばしい匂いを嗅ぎつけ、先程焼き上がったばかりのアップルパイのことを思い出した。

「あの……アップルパイならありますけど。いかがですか?」

 アンバーは背中の女性に尋ねた。

「ああ……頂けるのであればぜひ……なんというお優しい方でしょう」

 女性の声は弱々しいながらも、満ち溢れる歓喜を隠せずにいた。

「そんな……大袈裟ですよ」

 アンバーは少し吹き出すように微笑んでから、女性を食卓に座らせ、自らはキッチンから包丁と食器一式、そしておしぼり代わりの濡れたタオルを持ち出してきた。その間、女性はテーブルの上のアップルパイを目に焼き付けるように凝視していた。口元にはうっすらと光る液体が見える。

「あの……これどうぞ」

 その迫力に若干押されながら、アンバーは女性にタオルを渡した。

「……あっ、はい。ええ……ありがとうございます」

 女性はほとんど上の空で尋ねてから、タオルを口に運ぼうとした。そして目の前のアップルパイと、アンバーの手にある包丁とを見て、ようやく事態を正しく認識し、タオルで手を拭き始めた。

「え~っと……大丈夫ですか?」

「失礼いたしました。ところで、パイなのですが……」

 手を拭きながら、女性が気を取り直すように言葉を続ける。

「もしよろしければ、4つに切っていただけませんか?」

「はい、いいですけど……何故ですか?」

 女性が差しだしてきたパイに包丁を入れながら、アンバーは尋ねた。

「さすがに6つは食べられそうもないのです」

 女性ははっきりとそう答え、今度はパイが切られる様を凝視し始めた。またもや口元から光る液体が発生し、豊かな胸の上に落ちようとしている。

「はい……分かりました」

 アンバーはそれ以上は何も言わず、言われたとおりにパイを4等分し始めた。女性は3日も食べていないようなので、多少錯乱しているのだろう。アンバーはそう結論付けた。いずれにしても、4等分では時間もかからず、パイはすぐに切り終わった。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます! では、いただきます」

 女性は言うが早いか、即座にパイにかぶりついた。

「……まあ! なんと甘美な味わいなのでしょう!」

 一口食べただけで女性はにわかに活気づき、パイを置いてアンバーを熱っぽく見つめてきた。

「お優しい方、貴女はシェフなのですか? このように見事な腕を私のような見も知らぬ者に振る舞っていただけるなんて……」

「いえ、私は鍛冶屋の娘です」

 女性に気圧されながら、アンバーは穏やかに微笑んだ。

「それと、私の名前はアンバー。アンバー・スミスです」

「アンバー様……覚えました。すてきなお名前ですね」

 女性はやおら椅子から立ち上がると、素早く食卓の床に跪き、頭を下げた。

「申し遅れましたが、私の名前はタンザナと申します。貴女様にかけていただいた一食の恩義、必ずやお返しいたします」

「あの、ちょっとタンザナさん? そんなふうに言われても……」

 アンバーはタンザナの腕をつかみ、立ち上がらせようとした。その時、またしても地獄のそこから聞こえてくるような重低音が鳴り響く。

「……まずはお食事を済ませてからにしませんか?」

「そうしましょう」

 タンザナは跪いた時よりも素早く立ち上がり、席について食事を再開した。彼女がパイを完食する時間は、その時間よりも早かった――少なくとも、アンバーはそう感じた。

2へ続く


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