プリンセス・クルセイド #3 【心の剣】 4
天井にはシャンデリア、床には赤い絨毯が敷き詰められたロビーで、エリカは宿泊の手続きをしていた。その豪華絢爛な内装は、王家専用の宿泊施設に相応しい見事なものだったが、今のエリカには雰囲気を楽しんでいる余裕は無かった。
「あの……ここに名前を書けばよろしいんですか?」
「はい、そのとおりに御座います」
エリカが尋ねると、受付の女性がカウンター越しに恭しく頭を下げた。
「そちらと、誠に申し訳御座いませんが、何か身分を証明できるものはお持ちですか? 手続きとなっておりますので」
「……分かりました」
名簿への記入を書き終えたエリカは、ドレスから大仰な装飾が施された巻物式の書簡を取り出し、受付の女性に手渡した。
「どうぞ」
「あの……はい、ありがとうございます。お預かりいたします」
女性はやや戸惑った様子だったが、紐を解いて書簡を横長のカウンター一杯に広げ、書面に目を走らせた。そしてしばらく時間をかけて読み終えた後、また丁寧に包み直して紐を縛り直し、エリカに手渡す。
「……ありがとうございました。確かに確認できましたので、ご案内致します」
「ご案内……? 案内していただけるのですか?」
「ええ、もちろんです。それが私の仕事ですから……」
「仕事……ええ、仕事ですよね」
エリカは不安げに呟くと、後方のソファにちょこんと座っていたミーシャに声を掛けた。
「ミーシャ、私は……一度部屋に行っていますので、あなたは先にお店に向かわれては……」
「私もエリカ姫のお部屋が見たい! ……じゃなくて、見たいです!」
ミーシャはそう答えると、ソファから立ち上がり、興奮した様子で駆け寄ってきた。
「そう……ですか? では……参りましょうか」
エリカは戸惑いながらも、ミーシャを連れて歩き出した。受付の女性が二人を先導する。
(……まったく、なんと情けない……)
女性の背中を眺めながら、エリカは心の中で自らを責めた。たかが宿泊の手続きごときで手間取ってしまうとは。普段は従者が行うことであるため、不慣れであったことから、仕方ないとも考えられる。だが、身分証明書の提示を求められて動揺してしまったのはいただけない。自分の名前が十分に知れ渡っていないのだと感じてしまった。もちろん、ただの形式上の手続きだということは分かっている。
(……ですが、お兄様たちなら……)
兄たちなら、そんなことは無かっただろう。長兄のエイドリアンならば、笑顔で応対して労いの言葉の一つもかけるだろう。次兄のアルバートはエリカ同様に戸惑いそうではあるが、後でその戸惑いも笑い飛ばしてしまうだろう。三男のラリーに至っては、先読みして最初から身分証を提示しているかもしれない。しかし、エリカはそうはいかなかった。兄たちに余裕があると思えるのは、彼らがその名を世界に轟かせているからだ。エリカにはそれが無い。それはそれで良いのかもしれないが、そう思いつつも兄たちと比較してしまうことには耐えられない。
「エリカ姫、ここってこんなに広いんですね。私、中に入ったのは初めてなんです!」
そんな思いが渦巻く中でも、ミーシャは嬉々として話しかけてくる。
「そうなんですか。それは良かったです」
そう返事をしたのち、エリカは己の行いを悔んだ。どこか上の空で答えてしまった。年相応に無邪気なミーシャの行動は、今のエリカの胸中とは何ら関わりが無いというのに
「はい、良かったです」
それでも、ミーシャは屈託の無い笑顔を全く崩さず、エリカの隣から離れようとしない。歩幅が違う上に、胸の内のわだかまりから早歩きになってしまうエリカに、なんとか歩調を合わせてついてくる。
(……それにしても、この子はどうしてここまで私を……?)
ミーシャはまるで、エリカと一秒でも長くいたいと思っているかのようにこちらに接してくる。自分なんかのためにそれ程までに必死になる人物に、彼女はこれまで出会ったことがなかった。
(……いえ、きっと気のせいですね)
おそらくプリンセスということで気を使っているのだろう。昔はファムファンクにいたということだから、その時の感覚が残っているのかもしれない。エリカはそう結論付けた。
「……エリカ姫様、こちらのお部屋でございます」
やがて部屋の前に辿り着き、先導していた女性が一礼して厳かに扉を開く。開かれた扉の先にある部屋は、エリカにとっては何の変哲もないごく普通の泊まり慣れた部屋だった。
「す、凄い……」
だがミーシャは、目の前の光景に呆然としている。
「ええと……何がそれ程に?」
「何って……全部! ですよ! 広い部屋、大きいベッド、奥にあるのは……お風呂ですか? それに窓も大きい!」
ミーシャは興奮が抑えきれないといった様子で、部屋の中に駆けこんでいった。
「しかし、それぐらいは……」
そこまで言いかけて、エリカは口を噤んだ。不意に、長兄のエイドリアンの言葉が思い浮かぶ。
『エリカ、私達が普段受けているような待遇が当たり前のものと思ってはいけない。王室に生まれた者は、普通の国民とは違う扱いを受けるものなのだ。我々が望むと望まざるとをえずにな』
このエアリッタの外賓専用の宿は、一般市民の宿とは大きく違う。それはウィガーリー王室が差別的な待遇を取っているという訳ではなく、単に他国への敬意を表しているからに過ぎない。加えて、旅行目的で宿に泊まることの多い一般市民と違い、王室のものがこの地を訪れる時は、決まって政治的に重要なことを行う時だというのもある。
「……ええ、そうですね。いつも感謝しています」
エリカは自分に言い聞かせるように呟いた。
「エリカ姫、ベッドに座ってみてもいいですか?」
「よろしいですよ」
「やった!」
ベッドに向かうミーシャを脇目に、エリカは腰に差していた聖剣を抜いた。そして部屋の中央へと歩いていく。行く手には、エリカの腰の高さほどの台座が、奇妙な文様の上に置かれていた。台座の上には丸い水晶が一つ置かれ、エリカは剣をその水晶の上にかざす。すると水晶が光り輝き、部屋中を包み込んだ。やがて光が収まると、エリカの隣にいくつかバッグに入った荷物が現れる。
「……さて、これで全部ですね」
「その水晶、知ってます!」
ミーシャがベッドから飛び降り、水晶に近づいた。
「これって、魔術で荷物を遠くに一瞬で運べるんですよね」
「ええ。転送の魔術です。実際にはこの水晶はバイタルを注力するための媒体に過ぎません。転送の魔術の鍵を握るのは、この紋章……」
エリカはそう言って、台座の周りの床に描かれた奇妙な紋様の上に手を置いた。
「この紋章に込められた強力なバイタルと、私の部屋の紋章が繋がれ、物が転送されるのです。これほど大掛かりなのは、バイタルを使用する魔術だからですね。一説によると……」
エリカは話を切り、ふと顔を上げた。
「はえ~……」
ミーシャは呆気に取られていた。しかし、その瞳は輝きに満ちている。
「エリカ姫、凄い! 魔術のこと詳しいんですね!」
「いえ、私はそんな……」
「あの……私、どうすれば私もエリカ姫みたいになれますか? やっぱり、勉強たくさんしなきゃダメですか?」
ミーシャは明らかに興奮冷めやらぬ様子だった。だがエリカには、彼女の熱狂の先にあるものが理解できなかった。
「……私みたいになんかならなくてもいいですよ。私はその……何もできませんから。だから、私のことなんて目標にしないでください」
「えっ……」
ミーシャは息が詰まったように絶句した。驚きに満ちた目で、エリカの体を上から下へと眺め、やがて俯いた。
「……行きましょうか」
「はい……そうですね」
ミーシャは落胆しているようだったが、エリカは自分を納得させていた。どうやら、ミーシャの熱狂の先は、自分ではないどこか遠くにあるようだ。彼女自身が求める何かを、エリカに重ね合わせているだけなのだ。
(……いえ、それはもしかして……)
ミーシャを先導して廊下に出ながら、エリカは考えた。それはもしかして、自分のことを言っているのではないかと。
5へ続く