グレー
美術館をまわって、これは好きだこれはつまらないだなんだって言いながらお腹いっぱいになったころで、現代アートに突入した時のあの途方のなさったらない。
どこからどこまでが作品なのか、はて消火栓もそうなのか、この壁の傷は偶然か必然か。すがる様に目の前のボタンを押すと、金属のプレートだのプラスチックの輪っかだのが順番にがちゃがちゃと音を立てて動いて、もう何が何だかわからない。逃げ出したい衝動にさえ駆られる。
ポチっとすれば明かりが灯る恵まれた環境はありがたいけど、それと引き換えに手放したものもある。見えないものを見えないまま、わからないことをわからないまま受け入れることがどうも苦手になってきて、ついつい明白な意味や根拠を求め何かと括り把握したがる。自由を叫ぶのだけど、野放しにされるとどうすりゃいいのかわからない。
監視し勝手に決めて進めてくれる政府を選ぶのは自由だけど、その自由を守る民主主義は、枠で括られない芸術やこれまた自由なジャーナリズムなしにはそもそも成り立たない。民主主義ってそうゆうグレーゾーンの結晶だと思う。多数の要望と少数の意見の狭間でいつもおっとっとしているような、とても危ういものだから、支える器がこちらにないともちろん維持できない。白黒はっきりした一義的な物言いに身を委ねるのは確かに楽だ。自由選択の材料を提供してくれるジャーナリストや密告者を支えるのも私たちの自由意志で、自由意志を支えてくれるのも彼らで、一心同体の、ご飯と味噌汁のような、パンとコーヒーのような、そんな関係で繋がっている。
曇りの今日、雲の切れ間を健気に追って山を歩く。風をかき分ける太ももが冷たい。山はスペイン語で"la montaña" 。女性名詞だ。厚い雲が隠す山の頂をぼんやりと頭に描きながら、おとといと違う彼女の厳しく美しい横顔は、なんだか恐ろしく魅惑的で、巨大なアートの中に私たちはたたずんで、その一部になる。
ここにいる自由も、とても尊い。
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