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『学歴ブランドと格差の中 塾講師ってどうなのよ?編』

   高校も卒業となる3月、その少し前に、4月より大学生になれる事も決まる。一旦全滅だった受験も、ギリギリで補欠合格の連絡。
    親父からは「浪人なんぞさせる余裕など無い。大学行かないなら、俺の下で働け」と言われていた。仕事関連のバイトを、それなりにやっていた俺に事業を継がせたい気持ちもあるようだった。ウチには兄貴もいるのだが、教員になるという考えのもと、大学にもスムーズに進んでいたので、親父的には継ぐ継がないの話は何も言っていないようだった。そんなわけで3歳違いの兄が大学に行っていたので、家系的にも余裕なかったのも事実。
    俺は、「自分でバイトしながらでも浪人して、大学行く」と、当時は新聞記者になりたくて、そうするためには大卒の肩書きが必要だとの考えで、どうしても大学を卒業しておきたかった。親父的には、新聞記者なんぞは、人の不幸やアラを探す仕事で、ろくなもんじゃない。という考えだったので、兄貴のように黙認とはならなかった。そんな状態なので、そこそこの家庭内バトルを繰り返していたところに、2月末か3月頭の頃だったと思うが、
『補欠合格』入学辞退者が出たので繰り上げで合格になりました。との通知が『大東文化大学 国際関係学部』より届いたのだった。

 この頃の関東圏の大学ランクは、
『東京六大学』や その他  上智、青山などを上位校とし、
『日東駒専』 と呼ばれるグループが続き、
その次あたりに、
『大東亜帝国』と呼ばれた勢力が続いていた。
    この『大』の部分が、4月より通うことになる『大東文化大学』とされていた。まぁ三流大学と呼ばれるところより、一步抜き出ようとしてた時代なのかな?入学後になるが、ラグビー部や陸上部(駅伝)が大活躍で名前が知れ渡り、体育大だと思われるようになるのは、この少し後の話。

   そんな大学に通う前、高校卒業式の間際の頃、当時の遊び仲間の高須君が、大学生になっても続ける新しいバイトを始めたとの事。それが
『塾講師』だった。そして、その塾で国語の講師を探している。とのことで、俺に話を振ってくれた。
     大学生になって、塾講師やってるとか、ちょっとカッコいいじゃない。バイト代も良いといわれてる分野だしってことで、やれるならすぐにでも。
と、ふたつ返事で「やる」の返事。まぁ、あまり考えずに興味そそるほうへと流されるのは、今でも変わらないですね。
     確かに、国語は得意だった。偏差値も60を優に超えていたので。あぁアレね、それなのに他に受けてた上位校に不合格だったのは、言うまでもない。他の教科が段違いで悪かったからなんですよ。国語だけでよけれぼ、もう2-3ランク上の学校に行けてた。
とココでは言わせておいてください。
    そんなわけで『国語』ならいけると思ってくれたらしい。高須君自身も、その塾に元々通っていたとのこと。一軒家を改装して作られた、地元に根付いた個人経営(兄弟で運営)している塾だった。履歴書を持っていき、高須君が話を通してくれていたので、簡単な面接のみで採用決定。
     そうそう、ここまでにも色々とバイトしてきていましたが、意外と『履歴書』を書いたのは、このときが始めてでした。
   
     そして面接をした、その日に、どんなふうに授業をやるのかのレクチャー。数学の新任の講師のプレ授業(練習とチェック)を生徒役で受ける。という流れに。内容は中1の数学、私立文系一直線の俺には、もうすっかり頭から抜けている内容。いやいや頭に入ってすらもいなかった内容でした。
     俺も後にこんな感じの授業のチェックを受けるのだろうな、緊張しそう。などで思いながら授業は終了。その後は講師の準備待機部屋へ、ほぼ内容的には職員室のような感じの小さな部屋で、教科書、資料など必要なものを渡されながら、部屋の中の場所などのレクチャー。
・受け持つのは中1でひとクラス10名位
・その週のココとココの2日間で3コマをやってみてと
・範囲はこの内容で
・授業の30分前にはココに来て生徒に配る資料をコピーしたりして用意
    とりあえず、こんな感じで始めはお願いします。後は高須くんから聞いてね。と、内容濃いんだか、あっさりしてるんだがわからない、面接〜採用〜初日説明。
    高校の卒業式は終えたばかりの3月、授業初日となった。プレ授業は特にやらなかった。いきなり本番ってマジ!?と思いながら、授業1時間前に出勤。早すぎて居場所がなかった。とりあえず、講師室のじゃまにならなそうなところで、色々やっていたら、今やっている授業をドアの外から覗いてみてきたら。との提案されて、少し見学。
    なるほどそんな感じかぁ、との気持ちと、緊張と不安でドキドキでした。
チャイム的な音が鳴り、授業終了。
俺の初授業まで15分。資料も準備バッチリ、緊張しながらも楽しみ。すると、同じ時間に英語を教える高須が声をかけてくれる。まぁ気張らずにやってきな。といった内容。元々クールなポーカーフェイスな彼は、すでに何度か授業をしていて余裕の表情。まぁ、知り合いがいるのは気持も和らぐ。
   そして授業の時間。教室に行くとまだ数日は小学生の子どもたちが、席に付いて周りの子らと話をしながら、待っていた。戸を開け中に入る。始めての先生に彼らも興味津々のよう。
    簡単な挨拶をして、早速授業をする。何となく、自分が学校で受けていたイメージでやってみる。相手は子供ということもあってか、こちらとしてはすぐに、楽な気持ちで教える事ができた。子供等とも仲良くなれたので、特に問題もなかったと思う。途中からドアの外で観ていた、塾長以下数名の講師たちからも、特にお咎め的なことも無く「大体いいですよ」との言葉もいただき。初日は終了。
     コマが80分で2500円のギャラ。とは言え、前後30分程の準備時間ありなので、実質2時間強で2500円といったところ。当時の飲食店などのバイト代が、時給550-600円くらいが普通だったので、悪くは無かった。
    だが、初めのうちはとのことだったが、週に3コマだけでは、遊び盛りの大学生には少々厳しかった。ちなみに親との間では、入学金や授業料などのお金は出すが、交通費他、自分の身の回りのものや、外食、ましてや遊ぶ金など、大学の経費以外は、全て自分で賄え。との話でまとまっていたので、単価の良いギャラではあったが、このバイトだけではやっていけないとなり、もう一つ掛け持ちでバイトをすることになる。その辺りは、近いうち『牛丼の吉野家 編』にて語らせていただきます。
    そんな感じで学校帰りに、週2日を塾講師、週3-4日を吉野家でバイトという生活の始まり。

 授業自体はそれなりに上手くこなしていたと思う。生徒の受けもよかった。塾経営の方たちからも、特に何か指導とかされることもなく問題なく、一か月ほど過ぎたのだが・・・ただ、どうも同じ講師の先輩方から、よく思われてないのではないかな?という空気感というか・・・。講師部屋でわからないことを聞いても、無視されたり、露骨に避けられたり。幅を利かせている方々が何人かいらっしゃって、その中心が、現役の東大大学院生、早稲田大学生、あと上智などで、彼らがどうも俺のことが気に入らないようだった。その中心核の方々は、長年この塾で講師をしているらしく、この塾の指針を作ってきた自負から、完全に亜種である俺に嫌悪感があるようだった。と後に高須君から教えてもらうことになるのだが。
 結論から言うと、この一か月後この塾のバイトは辞めることになる。
 経営の方と話し合いの時間がもたれ。受け持ちの授業を週1コマにさせてほしい。教えている内容や、生徒の学力変動には問題ないのだが、生徒とのやり取りがフレンドリー過ぎるのが、ほかの先生と差がありすぎて、少し支障が出ている。といった内容だった。言い換えると、1コマでも残るならどうぞ。という体のいい解雇の促しでした。
 数十年と社会の揉まれた今ならば、何度となくぶち当たって来た学歴の壁だが、18そこそこの俺には、なかなか厳しい体験でしたね。

 とはいえ、ぶち当たって来たとかのたまわりましたが、大体はこの時と同じように、自分の学歴(○○卒の肩書)にプライドがある人との向こうから一方的な軋轢ぐらい。実際のところ、東大などの高学歴で、その学力や頭の使い方が素晴らしく、素直に尊敬できる方々にもたくさん出会ってきた。
 
 この件も含めいろいろ経験していくうちに、結局はその人自身、あくまでも『人』なんだなと思うようになっていくわけですね。
 エピソード的にこの時の塾のことは心に刻まれてますが、高須君以外の人の顔は全然思い出せなかったり、少し前に書いたラーメン屋のギャンブルおやじの顔はしっかり頭に浮かんだり、
なんなんですかねぇ(笑)

そんなわけで今回はここまで
では、次回は
『みんな大好き 牛丼の吉野家 編』
おたのしみに。


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