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『社会人1年目を舐め切りながら満喫・・・それからそれから』


 前回までのように、いやいや、そもそもの性格が問題なんだろう。そんな感じで社会人1年目「こんなんでイイんだ。ちょろいな社会人」と勘違いして、更に舐め腐った態度で仕事?にのぞむようになっていくわけでした。
 基本的にやらねばならない課題的に与えられている日々の仕事は、そつなくこなしていた。日中はほぼさぼりながら午後ゆっくり目に、ちょいと街の電気屋に営業回ってネタを拾いながら雑談してって感じ。その店主からの紹介で次の訪問先見繕ってもらったり。まぁこの辺りは、ある意味正しい営業訪問でもあったわけでしたね。
 では、午前中から外回りとして会社を出ているのですが、その時間何していたのか?ってことですよ。初めのころは、前回に書きましたように、喫茶店などに入りサボり、たまに営業準備したりね。ただ夏ころにもなると、サボり方も大胆になっていったりしました、慣れって恐ろしい。
 週1ペースくらいですかね、映画観に行ってました。東京下町方面を担当していたので、基本的には錦糸町の楽天地が多かったですね。おかげさまで当時の話題作はほぼ映画館で観たんじゃないかな。
『ターミネーター2』
『波の数だけ抱きしめて』
『ハートブルー』このあたりなんかは2‐3回は観たんじゃないかな。酷いもんだ。映画って本編前に次とか、今後の予定されている映画の予告編があるじゃない、あれに興行主の思惑通りに効果的にのせられていくわけですよ。さらにエスカレートすると、観たい映画が錦糸町ではやってないからと、会社出たら山手線で新宿や池袋に向かったりもしてました。  
 そんなある日、同期のT中に山手線に乗るところを見られて「地下鉄で行くんじゃないんだ?」なんて言われて、まぁ同期だし問題ないかな?って、実情バラしたら、思いのほかノッってきてとりあえず新宿で降りて、ふたりで喫茶店に入り、あーだこーだ話して、その後はたまに一緒にサボることも増えたり。結局、彼も担当地域の店主と時間合わせるのに、いろいろ四苦八苦していたってわけ。さすがに「映画までは観に行ってないわ」って呆れられたりもしましたが。
 これ当時の話だからサボりもできたわけだと思います。今ならスマホ鳴ったりしたら、出れなくともすぐ折り返さなきゃならないわけだし、下手すればGPSなんかも付けられたりね。そんな時代だけど、何もなかったわけではなかったんだけどね。それがポケベル。といってもその後に女子高生の必須アイテムとなる文字画面があるものではなくて、ジッポライターくらいの大きさのただの黒い塊。ベルが鳴ったら公衆電話などから、あらかじめ指定されている電話番号にかける、というシステム。もちろん自分らは鳴ったら、所属の販売部の直通電話に掛けることになっていた。課長からの伝言だったり、夕方にアポとっていた先様からの伝言だったり。スマホも個人の留守電も、ましてやLINEなどのSMSもない時代。決められた電話先が留守電的にメッセージのやり取りを受け持つことは珍しくなかった、そんな時代。仕事でなくプライベートでは、家に電話して母親に「○○から電話あったら、先に何処何処へ行くって伝えてくれ」とか頼んだりしてたこともあったね。駅の伝言板というのもあったね。
 そんなローテクな伝言システム時代、そうそうポケベルが鳴ることはなかったが、たまに鳴る場合はそこそこ大事な要件となるわけで、その大事な伝言を逃すと大変なことにもなるわけだったりする。
 ある日のこと、いつものようにサボりにサボって、15時ころから真面目仕事モードに。予定地域に着くとポケベルが鳴った。社に電話すると「ムサシさん、今どこですか?ずっとポケベル鳴らしてたんですけど」と事務担当が少し慌てた様子。ちなみに当時の電話電波事情なので電車移動中はもちろん、地下になどいたら繋がることは、まず無かった。そういう事情なので連絡するほうも、さほど捕まらなくとも慌てることなかったのだが、今回はそうでもない様子。
「○○部長より、16時に芝浦の東芝まで来るように。との伝言です。取材の付き添いだそうです。間に合いますか?」とのこと。
急いで行けば、何とか間に合うか?とにかく急がねば。な状況。待ち合わせ場所聞いて電話切り、即移動。結果的には間に合い、取材同行もでき、記事も書いてみろとなりました、採用にはなりませんでしたが。 
 その帰り際「ポケベルならなかったようだけど、移動中だったの?」と尋ねられ「地下鉄移動してましたから」とすっとぼけておきましたが、当日の行動表提出時に、辻褄合わせる動きにするのに苦戦したの覚えてます。嘘をつくとね重ねなきゃならんわけですよ。
 そんな感じでピンチも、それとなく回避できたものですから、業務自体に遜色ない程度で、引き続きサボりまくる日々。それでも同期の中で1,2番の購読販売数と記事行数をキープしてたので、社内的評価は高かったようでした。
 秋ころから翌年にかけて、新入社員は更なる経験を積む為に支局への転勤が命じられる時期となる。基本的に支局長と支局員1人と事務1人の体制とのことで、俺のように手っ取り早く実務経験積むことを目的にしている輩にはうってつけの場所だった。はずなのだが、大阪支局、仙台支局、福岡支局へとほかの動機が決まり移動する中、翌4月にやっと俺の移動先が決まった。
 関東総局、場所は群馬県高崎市に曲を構えるが、東京以外の関東全域を網羅する部署。局長のほかに2人の先輩社員がいて事務も2人いたかな?そこにペーペーの俺が加わるとのこと。ほかの支局は若手社員の入れ替えか、もともと局長1人のところへ配属なので、即戦力扱いのようだったが、関東総局はそうはいかなかった。結局は先輩社員について回っての取材動向。記事も書かせてもらえない。先輩も自分の仕事で手一杯のところなので余裕もない感じ。なんか居心地悪くて、ここで数年過ごすのは、経験も積めないし時間の無駄と感じてしまい、転勤後2週間で『辞表』を提出させていただきました。若いよね~考えが胆略的過ぎ。
 社内的にも前代未聞の騒動のようで、少々バタついた様子でした。局長との面談がすぐに設けられたり、販売部の課長から電話があったり、引き留めが続きましたが、その時点では新聞に記事を書くこと、この時点では広告主の機嫌を取るための、本音を書けない記事に意味を見出せなくて、だいぶ冷めてたのが実際のところだったかもしれません。ふとした時に、それまで知らず知らずのうちにため込んでいた違和感が溢れ出して、急に冷めてしまう性格は今でも変わらないのですが、いいんだか悪いんだか・・・。
 ここで踏ん張っていれば。という思いもあった時期もありましたが、それらや他のことを経て、今ここに、また文字を紡ぎだしている自分がいるわけなので、結果よかったのだと思います。
 辞表提出後2週間で、一応綺麗に退社。その後に社内では例の社員大会があり、そこで少し話題に上がってた話は、のちに同期に聞きました「関東総局は、期待されているルーキーの転勤先だったらしいよ」とも聞かされました。ありがたい話だったのですが「そうだったのかもったいないことした」って気分にもならなかったので、やはりもう冷めていたんだと思います。
 一番バタついたのは実家だったかな。1年と1か月でいきなり会社を辞めたおっきい子供が家に戻ってくるわけなものですから。兄貴が少し前に結婚して家出ていたので部屋は空いていましたが「どうするんだ?」ってなりますよね。もちろん、その時点では次の仕事のことなど何も考えていなかったです。行き当たりばったり人生のスタートですね。
 1ヶ月くらいかな、多少の貯えもあったので、親の目も気にせずプラプラとしてましたところ親父から真面目な話を持ち掛けられました。
「チリでウニが採れるようで、それを加工して日本に持ってくる事業をやろうとしているのだが、現地での買い付けや工場管理など信頼できる日本人を駐在させたい案件があって、お前やることないなら行かないか?」と簡単に言うとこのような提案。
 アルバイト歴を晒せシリーズでも書いたように、親父は水産会社をやっていて、今回の絵図は他の会社との共同事案のようで、そのパートナー会社の社長さんからの提案でもある様子。
 即答はかっこつけてしなかったけど、真っ先に頭に浮かんだのは「面白そう」の一言だったので、ほどなく受諾。その流れで親父の会社「東武水産株式会社」に入社となる。ちなみにかの東武系のグループ会社ではなく、親父曰く「『東』京の『武』藏の会社じゃから文句は言わせん」とのことだった。実際に東武グループから問題にされかけたらしいが、先の意見で押し通し、その後何とも言ってきていないとのことだった。まぁ気にするほど大きい仕事しているわけでもなかったので、ハナにもかけられなかったってところだろうと思う。

そんなわけで
今回で「社会人1年目 新聞記者編」は終了。
次回より
「水産会社編」突入
「海外駐在派遣にあこがれて」
お楽しみに。
 


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