彷徨うおっさん159 若い人は何故啓蒙書が好きなのか(2/6)
■ 啓蒙書の欠点
啓蒙書は万能ではない。にもかかわらず、その特殊な熱によってメソッドを信じたくなる書きっぷりや性質の本である。
故に現実と理想の間で、冷静に状況分析できる人でなければ、啓蒙書は危険な書物になる。
啓蒙書に感化され、冷静さを失う人が後を絶たない理由として、啓蒙書の持つ以下の魅力と表裏一体の欠点があると筆者は思う。
① 可能性のみを前面に出している
② 事実としての成功体験を語っている
③ 悩みや苦しみといった暗く乾いた気持ちを明るく前向きにする
■ ① 可能性のみを前面に出している
可能性は希望でもある。自分にもまだまだ何かがある、変われる、成功できると可能性を見出せれば、停滞する人生から一先ず脱することができる。
行き詰った時こそ活路を見出す必要があるのは確かで、啓発本がその切欠になったのならそれ自体は否定は難しい。
しかし、可能性はあくまで可能性であり、世の中自体、うまく行く見込みが薄いものの方が多いのが当然である。
筆者の体験を述べる。若者が集うとある読書会での話。
おすすめの書籍を紹介し合うという機会があったのだが、その若者が手にした本は、朝活の啓蒙書であった。
「自分には朝が向いていて生産性も上がった」と、いたく内容に感銘を受けていたようであった。そして中身を語っていく中で
「95%の人は妥協をして生きており、残りの5%が自分の望む人生を生きている。自分も5%になりたい」
という話を聞かされた。おや。と思った。少々冷静さが足りないのではないかと。
繰り返すが可能性はあくまで可能性である。この話で言えば、95%側で妥協することを考えず、5%側を目指すのが正しいとなぜ言えるのだろうか。
仮に5%側が良いとして、そうなるためには当然、この啓蒙書の内容だけでは不足であろう。才能、運、そして啓蒙書以外の多種多様かつ多大な努力が伴うであろう。それがわかっているのかと。
啓蒙書の内容はあくまで参考とし、
「95%側の妥協の人生をいくらかマシにしたい」
「これだけではまだ分からないので、試している最中だ」
と言った見解に留めておくべきではないだろうか。
啓蒙書は特別な人生という僅かな可能性にフォーカスしすぎるところがある。
その方がセンセーショナルで、発行部数も伸びるのは言うまでもないが、だからこそ、商業的な意図の混じった洗脳に侵されやすい書籍でもあるのだ。
改めて言うが「可能性はあくまで可能性である」
メソッドや可能性を語るならば、もっと読者に冷静に読ませるのがあるべきモラルだろうが、実態はどうにも感情を刺激するような構成、偏った内容になっていることが多いように思う。
次回に続く