彷徨うおっさん106 詰め寄る文化の果てに(前編) 昔は容赦なく子供が叱られた
最近は大分なくなってきたが「詰め寄る」ことに違和感を感じない人が、かつては多かったと思う。学校教育で先生が児童・生徒へ教育、会社組織において部下後輩へ指導・指摘、家庭において子供やパートナーに、果ては街角で店員に対して。
これら文化が長年続いた結果、日本では、過剰なまでに我慢が美徳だと認識し、幸福に生きることを諦めるようになってしまった。一方で言うべきことを言うという当たり前のコミュニケーションがうまく機能せず、多くの人が心を荒ませ、経験不足で人格が未熟な人たちが多く放置されている。そして子供への教育や部下との接し方と言った、基礎的な対人関係全般の迷走にもつながっているところがあるように思う。
今回は「詰め寄る文化の果てに」と題して、おっさんが過去に詰め寄られた体験を紹介しつつ、詰め寄る文化の影響について述べていきたい。
<叱責は覚えていても、全部トラウマになる分けではない>
1980年代後半。おっさんが幼稚園から小学校に上がったばかりの頃のこと。
この時詰め寄って来た人間の顔は嫌でも思い出せる。列挙してみると。
・父母
・祖父母
・幼稚園と小学校の先生
・習い事の先生
未だにあの顔と態度は目に焼き付いて離れない。
昭和生まれにとって、大人に叱られることは、良心に限らず、割と日常的だった。
だが全部トラウマになっているかと言うとそうでもない
この時はおっさんも当然、おっさんではなく幼子で、相当に未熟だったわけだが、本当に危ない事をして怒られる、相手が嫌がることをしてしまって怒られる事も当然あった。
それらは、矛盾しているようだが、痛く反省しつつも、誰に怒られたかは案外曖昧で、その時の言葉や場面もハッキリとは思い出せない。
思うに叱られた本人が、自分で納得出来ているようなことはトラウマにはならず、明らかに必要な教育的叱責となり得たのだと思う。
実際、高い塀に登ったり、危ない機械に触ろうとしたり、おもしろがって友達の持ち物を取り上げて騒いだり、こちらのミスに対してムスっとして責めてきた女の子と喧嘩になって、つい叩いてしまったり。。。
思い出せば、まあ明らかにその時のおっさんが悪いよねという話だったことだけは思い出せる。
<昔スイミングスクールで怖い女の先生に詰め寄られた時の話>
だが一方で、トラウマになっていることもある。おっさんの体験を話す。
スイミングスクールに少々通っていた頃のこと、親の失念でというとアレだが、渡された着替えセットに、2度続けて帽子が入っていなかったことがあった。
何で入ってないんだよ~とイライラしつつも、スクールの先生に帽子を貸してもらったのだが、その時にこっぴどく怒られたことをよく覚えている。
忘れ物をした時、理由の如何はどうあれ、大人ならば「ごめんなさい、貸してください」と言うのが普通だと思う。それを小さい頃のおっさん、「忘れました」とだけ答えた。すると
「で?なにそれ!?貸してくださいって言うんでしょ!ホラ!A先生と違うんだからね!甘ったれんじゃないよ!」
と、すごい勢いでB先生に詰め寄られた。
その前の週に忘れた時、確かにA先生に忘れましたとだけ言ったときは「あらそうなの?じゃあ貸してあげるね」で終わった話だ。今回もそれぐらいで、せいぜい「有難うございます」が言えればよかった程度の話だと思っていた。
だが、怒ったこのB先生(どちらも女性)は容赦がなく、あまりにキツイ物言いだったので、初めて怒られた時、おっさんはボロボロに泣いて心が激しく震えてしまった。
帽子なしで泣きながらではレッスンが受けられないので、最後はなんとか心を落ち着かせ、ヒックヒックと泣きながらも、「ごめんなさい、貸してください」と言ってその場を切り抜けた。
するとB先生は、尚もむすっとした顔で、追い打ちをかけるように、帽子を無言で投げて渡すのである。
おっさん、若干6歳の頃の、苦い思い出の一つとなった。
次回に続く