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彷徨うおっさん124 もっと政治議論・政治参画せよ(前編)
昔から「政治と宗教と野球の話はタブーである」と言われており、おっさん(1980年代生まれの著者)あたりだと、親から教育を受けた。結果、ある程度年齢が行くまでは、政治の話はあまり直接しない人生を送って来たように思う。
野球については、同じチームのファン同士ならば意気投合する一方で、それ以外の面ではあえて話題に出さないことで良い距離に落ち着いている。
宗教であれば、昨今はすっかりその影響力が失われ、カルトが起こした数々の問題の影響もあって、道徳教育や生き方、普遍的な文化や歴史的側面の会話のみが語られるに落ち着いてるかに思う。
ところが政治の話については、まだまだ日本人は苦手で、支持政党や政策に対する議論、政治家や政治政党を応援する活動などに、熱心な興味を寄せるものは決して多くはないように思う。
何処の政党にせよ、誰を支持するにせよ、一度決まった政治の方向性や影響は、自身の生活や経済、もっと言うと人生にかなり大きな影響があるものだとおっさんは思うのだが、この日本ではどうにも話しづらいトピックであり続けているので、悩みどころだ。
今回は「もっと政治議論・政治参画せよ」と題して、おっさんの思う所を述べたいと思う。
※10月15日現在、衆院選公示が成された。これからおよそ1か月の間、有権者は色々と考えるだろうが、先ず周囲との議論を活発化させたり、実際に政治政党や候補者と接点を持つことなどで、正しい判断ができると思い、このタイミングで投稿することとする。
<政治の話が何故タブーとされてきたのか>
非常にざっくりとした概念を話すが「日本人は和を以て貴しとなす」民族である。村社会であり、同調圧力も大きく、儒教的考えから大人には黙って従い、皆で同じ方向を向いて一丸となって突き進むことのみを良しとする面があるように思う。
これは良い面もあって、ルールを守る、一度決めたら徹底的にやり抜く、集団の力が強いといった特性にもなる。これらは外国人が恐れる、或いは敬服する、日本人の性質・美徳でもある。
この特性のためか、なるべく周囲と揉めず、なあなあでもなんでも、上手く調和し、有事には細いことは気にせず団結しつつも、皆の意見を押しなべて反映させたとされる曖昧な決断ばかりをする性質になったと思う。
結果として、とかく白黒つけざるを得ない政治の話は、国内ではタブーにならざるを得ないのだろう。
また、少々話は変わるが、右翼左翼と言われる思想なり団体は、政治と密接に関わりつつも、過激な発言や行動を伴いがちである。
旧大日本帝国を彷彿とさせるような軍事国家的印象、例えば日本人は東南アジアで真剣を抜いて現地人を不当に弾圧したといった情報を本気で信じる人達。
或いは、靖国参拝を過激に批判したり、平和憲法さえ順守していれば日本は恒久的に戦争に見舞われないとまで主張する人達。
例に挙げた以外にも、著しく偏った情報を基に主張を展開する者や、一般的な因果関係、人類の歴史などに鑑みても、楽観が過ぎる理論を展開する者がいる。
そして彼らは目立ち、政治の場面において、非常に大きな声で自論を訴え続けてきた。また、メディアや一部の政治組織(悪徳な労働組合など)は面白がってか、或いはネタになって金儲けにつながるからか、時に彼らを煽り、時に彼らの過多を持つ形で、時にはテロや過激な政治活動を通じて、無関係な人たちにも影響力を行使してきた。
こうした動きもまた、有権者の多くが政治自体をなんとなく恐れ、タブー視する風潮につながっていったと思う。
<最近は政治的無関心を装って生きることに限界が出てきた>
一方で、昨今は多様な価値観が貴ばれる時代へと変遷してきた。
また、同調圧力によって組織ごと誤った方向に進んだり、個が著しく侵害される風潮も問題視されるようになった。
インターネットによって多くの情報(メディアが扱わない今まで知らなかった多くの真実を含む)が共有されるようになり、グローバル化も進んで、海外の批判や圧力もモロに伴うようになってきた。
また、日本人の「和を以て貴しとなす」の影響に伴う悪い面も目立ってきた。小さなものでは枚挙に暇がないが、例えば近年ではコロナにおいて、自粛警察、マスク警察などがある。厳密なルールではなく、自粛のお願いとして政府から出されたものであったはずだが、その大本営発表を良いことに、逸脱を許さず、マスクをしない人間、ワクチンを打たない人間を過剰に批判し、嫌がらせまで行う個人や集団が、国内のあちこちに出現し、問題となった。
政治の話で印象深いのはやはり、今から15年ほど前の民主党による政権交代の時だろうか。
メディアが煽った熱狂により、全国民と言っても良いぐらい、有権者が一丸となって一つの大きな選択をしたわけだが、2011年の3.11による大混乱の時のような誤った選択の他、外交の失敗、外国から「LOOPY」とまで呼ばれてしまう首相の出現、まるで水戸黄門でしかない芝居がかった事業仕分け、結局手取りが減っただけの子ども手当。。。
そうした言葉を失わずにはいられない数々の政治的失敗が発生した。
散々批判しておいて、100%民主党が何もかも悪かったのかというと、そこまでは言わ無いが、それにしても、政権交代などという「ゼロ・イチ」の発想で国内がひっくり返った現状、即ち、有権者側の怠慢こそが最大の原因であると、感じないわけにはいられなかった出来事であった。
熱狂によって大きな期待ばかりが先行し、いざ政権交代すると、あまりにも劇的な変化が発生し、素人判断によって国民がとことん振り回され、あまつさえ有権者の中には熱狂的に投票しておきながら、「コラ!どうなっとるんじゃい!」と掌返して怒る人が沢山現れた。若かりし頃のおっさんは「そりゃあ、なんにも考えないで投票するからだよ」と呆れたものだ。
だが、かくも当時若かった人達だけでなく、多くの人がこの投票行動や、政治的無関心を反省したことと思う。
偉そうなことを言っておきながら、おっさんだって熱狂に包まれる中で「今は民主党なのかも」と最後まで散々迷ったのだから。。。
次回に続く