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彷徨うおっさん107 詰め寄る文化の果てに(中編) 叱られているのか、怒られているのかは、子供でもなんとなくは分かる

 前回は、叱責の全てがトラウマになるわけではなく、身に染みて反省したことは思い出せるけど、トラウマにはなっていないという、おっさんの個人的な見解を述べた。また、逆にトラウマになったものもあって、スイミングスクールで忘れ物をした時、当時6歳の少年だったおっさんの稚拙なコミュニケーションを、当時の大人にこっぴどく責められた話をした。

 今回はその、スイミングスクールでの出来事について続きを述べ、トラウマになるか教育や躾になるか、その差はどこにあるか考察したい。

<昔スイミングスクールで怖い女の先生に詰め寄られた時の話 続き>

 昔はともかく、今では厳しい指導は考えられない。

 色々理由はあるが、礼儀や躾というのは、今や先ず第一に家庭教育の責任とみなされているのではないだろうか。少し口のきき方がアレでも、舌足らずでも、必要以上に他所の家の教育に干渉べきではないのが現在の主流だ。

 また、社会人で自分の部下であるなら、会社の看板や信頼と言った意味でまだしも指導する意味はある。だがその真逆で、月謝を支払ってくれるお客さんのお子さんに、そこまで言うのは結構勇気がいる話である。

 無論、モンスター客は追い出されて当然ではあるが、ある程度以上の踏み込んだしかり方は、親自身とは勿論、子供本人との信頼関係の構築が必要になってくる。

 そして、叱るときの口調、叱るタイミングも考えなければならない。例えば一人を責めるのではなく、全員集めて一般論として伝えるといった工夫も必要だろう。
(職業訓練指導員の教本にも同様のことがハッキリと書かれているぐらいだ)

 だが当時はそれでも「厳しい先生」の一言だけでまかり通っていた。おっさんも家に帰って泣きながら祖父母に叱られた時の事情を話したが「礼儀についてはキチンとせえ」と諭されて終わったものである。

 叱られた当人からするとお叱りがトラウマになっただけでなく、その前後で友達や兄弟に「ほら~、もっとちゃんとしないからだよ~」などと、本来は身内で仲間であるはずの子供達からも更なる追い打ちをかけられたことをハッキリ覚えている。

 そしてレッスン中に一人だけ出遅れたり、一部参加できなかったり、周囲に泣いている姿を見られたりと、ばつの悪い思いをたくさんしたことも鮮明に覚えている。

 しかも最後は全部受け入れるしかない。だから辛くて悲しくてトラウマにもなったわけだ。

<トラウマになる怒りと、教育や躾になる叱りの差はどこにあるのか>


「忘れました」で棒立ちするだけの未熟な少年が、社会に出るまでのどこかで「面目ない。どうか貸していただけませんか。」と言えるようになる必要は当然ある。だから教育や躾の必要性は無視できないとは思う。

 
 だがおっさんの経験は、当時を振り返っても「たった6歳の子供に、そこまで面目を潰してまで言うことだったのか」と酷な印象が残っている。だからB先生には未だに、感謝よりも恨みの方が強い(正直に言いすぎだが本音はそうなる)。
 そして忘れたいのに、そのB先生の名前も台詞も態度も不機嫌そうな顔も、未だにハッキリと自身に焼き付いてしまっている。

 このようなトラウマを子供に残してしまう指導は、「怒り」であって教育や躾では無いようにも思う。
 ではその差はどこにあるのだろうか?

① 暗い感情が混じっている
 そのB先生とA先生の関係も、子供ながらになんとなく他人行儀(そこまで仲良さそうではない二人)な感じがしたのを覚えている。
 はてと、そのことを大人になって改めて考えてみると、教育に格好つけて、A先生との関係性(邪推でしかないが嫉妬など)に付随して、B先生が子供に当たり散らしている感じがしなくもない。

② 教育対象(子供)にフォーカスしていない
 確かに一切礼儀を教えないA先生も、当時としては子供を甘やかしすぎだが、かかる躾に当たって「A先生と違うんだからね!」などと、ああも子供にA先生の在り様を過剰に意識させるのは良い気持ちがしない。A先生は別に悪くは無いし、本質的には全く関係のない話である。
 A先生ではなく、子供にフォーカスしていれば、礼儀や口のきき方について単純に指導するに留まれるはずだ。B先生がA先生を意識しすぎて、想いがブレブレなのが子供にも分かってしまう。

③ 許せないという「想い」ではなく、明らかに「不機嫌」で子供に接している
 相手が理不尽なことや誤ったことをした時、許せないという「想い」が誰しも湧いてくることとは思う。あくまでおっさんの感覚だが、その「想い」は純粋で、清々しいとすら表現できる物であると思う。
 一方で、なんかあいつ気にくわない、胸糞悪い、一言言わなければこっちが嫌な想いになるといった「不機嫌」は、例外なくモヤモヤしいる。
 その差は言葉で表現できなくても、受け手には明らかな感覚的差がある。子供にも感じられる差や違和感だ。
 そしてその単なる不機嫌の表明は、いつまでもまとわりついてトラウマになっていく。

次回に続く

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