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『ハウス・オブ・グッチ 上』を100ページちょっと読んだ。
上巻は約300ページなのでその1/3ほど。
映画と同じところ違うところにやはり着目してしまう。
そして、登場人物はそのまんま映画の配役を当てはめてしまう。
これは映画やドラマを先に見て、そのあと原作にふれる場合、よくあるパターンだと思う。
映画の方が登場人物が絞られ、ストーリーも単純化されているのは予想通り。やっぱり原作には原作の良さ、映画には映画の良さがあるなあとしみじみ思う。
映画を見ていなければ原作を読もうという気にはなれなかったと思うので、私の場合は映画から入ってよかった。
映画も映画好きの人から薦められてなければ見てないので、これまたよかった。当の本人がまだ見ていないというのがなにより驚きだったが。
原作を読んでいて、一番、え――――と驚いたのは、P57だ。
パオロ、パオロ、パオロ!クリソツじゃねーかっ!
読んでいてと言いつつ、写真だが。グッチ家の人々の集合写真。
写真に撮っておくって、やっぱりいいなあ。
次に、P85。やっぱり写真。
マウリツィオとパトリツィア。似てる。あ、もちろん、映画の配役に。
パオロは髭、マウリツィオは眼鏡、これだけである程度似せられる。それに対して、パトリツィア。
レディー・ガガ、頑張ったんだな、ってこれだけでも鳥肌立ったわ。
しかし、今気づいたが、左にマウレツィオ、右にパトリツィアのカップル写真。よく見るとさらにその右、写真は切られているが、パトリツィアの肩を抱いているものがいる。誰だ?マウリツィオより背が高いぞ。気になるぅ。
原作を読むと、映画とは違って、かなりアルドが短気なことがわかる。
一方、パオロだ。パオロ、映画では道化役のようだったが、とんでもない。こんな記述がある。
アルドの息子のパオロは創造的才能に恵まれた変わり者で、
変わり者であることに間違いはないのだが、「創造的才能に恵まれた」というのが、映画では、あらら…という風にしか描かれていなかった。
だがアルドは、このときの喧嘩を深く悔いた。ビジネスの観点から考えると、パオロという貴重な人材と彼のエネルギーを失ったことになるし、対外的にもマイナスだ。
対外的な面は当然だとして、きちんと貴重な人材と書かれている。
パオロ、ああ、パオロ。
外国、それも欧米というと、私はどうしてもアメリカのことばかり浮かぶ。イタリアの文化といえば、小学生の時のスーパーカー・ブームでランボルギーニ・カウンタックカッコイイな、同じくミウラ、イオタいいなと思ったくらいだ。
ファッションやブランドものは、私から最も遠いからなあ。それならまだイタリアの食文化の方が。それもよくわかってないけど。
読んでいて、ああ、そうなのかあとぼんやり感じたのは、家族のつながりの強さ。あくまで映画を通じて作られたイメージだが、そういえばマフィアなどそうかあと。
かなり男社会な感じがするし、強いて言うと、中国のイメージに通じるところがあるなあ。
イタリアについて、もっともっと知りたくなったよ。
おまけ。
初めのキャッチアップ画像、付箋がどこに貼ってあるか、気にならない?
気になる、気にならない、どっち?
「泣いているだけじゃ何もつかめないわよ」と母はいった。「人生は戦いよ。戦わなくてはだめ。重要なのは中味なの。がたがたいわれても気にするんじゃない。あなたのことをわかっていない人にはいわせておけばいいのよ」
固定された階級社会に食い込むの、大変なんだろうな。ロドルフォに雇われる弁護士のデ・ソーレについてのP116の記述でもそれは感じる。
一口に、欧米といってしまうけど、イタリアとアメリカ、えらい違いだね。
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