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受け入れることだけが、愛じゃないと気づいた日。

学校に、20年前に交通事故にあった男性がいる。体の一部がやや動かしづらそうで、しゃべるのもつらそうに映る。でも事故直後は、耳も聞こえず、寝たきりだったというし、今は車も運転しているのですごいなとおもう。

もうひとり、いつもクルエラデビルみたいなコートを着ている高齢の女性がいる。若干耳が遠くて、いつもマイペースに雑談をしまくり、不満を言いふらしている。でもその年の女性と比べたらしゃんとしている方かなとおもう。

たまたま同じ日に、二人について別の人と話す機会があった。男性についてあるデンマーク人女性は「いつも授業での質問はトンチンカンで、まるで8歳のような質問をする。何度も同じ質問をするし、とても学んでいるとは思えない」と言った。別のデンマーク人女性は、高齢の女性について「寒がりすぎだし、落ち着きがない。空気を乱すようなことをしがち」と言った。

正直、それについては知っている。知っているというか、誰がどう見たってそう。いるじゃない、ちょっと病気があるのかな?と思うような行動をする人。普通じゃない、おばあちゃんになったら耳は遠くなるし、自分のことしか見えなくなりがちだし。

一瞬「そんな悪口をいうなんて!」とおもった。でもこれは、悪口を言っててよくないね、っていう話ではない。(もちろんわたしは控えたいが)わたしは、それを、わざわざ言っている女性たちに驚いた。驚かされた。

なぜ驚いたのかと言うと、わたしが彼らを「型」にあてはめていた証拠だと気づいたからだ。彼らが「普通」とはズレたことをしようと、それが彼らだと思っていた。受け入れていた、と言うと聞こえはいい。でも「彼らは、普通のことはできない」と決めつけていたのだと思う。

わたしは彼が授業で、何度同じ質問をしても「障害があるから仕方ないよね」といなすような目でぼーっとしていた。高齢の女性が、支離滅裂なことを言っていても「まあ、年取ったらそうだよね、かわい〜」と片付けていた。

それなのに、デンマーク人女性の二人は、「1人のひと」として平等にみているんだな、、、と静かに震えた。求めるという言い方は違うけれど、「どんな相手にも、平等に同じことを求めている」ように映る。

一方わたしは「できなくて当然なんだから、いちいち気にしなくていいのに」と思った。でも「できなくて当然」ってなんと失礼なのだろう、とじぶんに驚く。

全てを受け入れるということが、大事だと盲信してきた。受け入れることが愛だと信じていた。けれど、受け入れることだって万能ではない。ときに「そこをもうひとつ!」と後押しすることが愛になりうるかもしれない。受け入れることだけが、愛じゃないと気づいた日。

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このつき
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