個人と戦争。知覧の特攻隊基地 #遺書005
おはよう子ども達。
今、僕はいつものように、家の狭い机に向かって、この遺書を書いています。
今日は、戦争について。
1.知覧特攻平和会館に訪問した
2024年4月に、鹿児島県の知覧(ちらん)にある、『知覧特攻平和会館』に訪れました。
2013年ぶり、2回目の訪問です。
最初に断っておくと、僕はいわゆる「右」や「左」というような、特定の政治的思想に属するものではありません。
もちろん、無意識に刷り込まれている価値観みたいなものはあると思いますが、少なくとも意識の世界ではフラットです。
(どちらかというと、それぞれの政治的思想も「人類を人類たらしめるための虚構の一つ」だと考えているし、その虚構がなぜ一定の人々を惹きつけるのか?の客観的なメカニズムの方に興味がある。)
だから、この遺書も何らかの政治的メッセージを持たせたい意図は、まったくありません。
2.「日本人なら、一回は知覧に行っておくことをお薦めする」とIさんは言った
2013年に最初に知覧を訪れたのは、Iさんという知り合いの社長に勧めてもらったからです。
曰く、
「日本人なら、一回は知覧に行くことをお薦めする。あんなに泣いたことはない」
「実際に戦争を経験した人の口から、戦争を語ってもらう経験は、きっともう数年でできなくなる。今のうちに聴いておいた方がいい」
と。
知覧という地名や、かつてそこに特攻隊の基地があり、今は平和会館になっていて、数百点の直筆の遺書や遺品が展示されているということを、
その時初めて知りました。
「尊敬できる人が薦めるものは、試してみる」ということを大切にしているので、この時も、さっそく飛行機を予約して、1人で鹿児島に出かけました。
26歳。君たちの父になる、5年前です。
3.確かに生きた人がいた
26歳当時の僕にとっても、知覧特攻平和記念会館の衝撃は、大きなものでした。
壁一面に展示された特攻隊の方々の遺影と、直筆の遺書の数々と向き合うと、呼吸が浅くなり、全身が緊張するのがわかりました。
特攻隊員の方々は17歳〜32歳で、平均年齢は21.6歳だったとのことです。
遺書の数は数千枚に及び、
とても全てを読み切れるものではなかったのですが、
立ち止まり、1枚の1枚の遺書に向き合うと、綴られている生々しい想い、願い、人間関係や人生が、湯気のごとく立ち上がるように感じました。
2011年の東日本大震災の際、北野武さんの言葉が思い出されました。
この遺書の一つ一つにはその”筆者”がいて、
それを書いた瞬間と、一挙手一投足があり、選んだ言葉があり、
その筆者と思いを馳せた家族には、人生があったのだ。
母に連れられて初めて小学校に登校した日の事を綴った内容や、
「会いたい!」という文字、
「前の同期が飛び立ったから、いよいよこの後は自分の出撃です」といったまさにその情景を書き記したもの。
「特攻隊員の方々には、人生が確かにあったんだな。」
ということと、
「彼らが生きた時間と今は、同じ時間軸上の話なんだよな。」
ということを考えました。
4.「お願いだから戦争に行かないで」という母の言葉
そして、ふと、
幼い日の母の声が蘇りました。
「お願いだから、もし戦争が起きても、たかちゃんは行かないで」
どういうタイミングでそれを言っていたのかは忘れましたが、
幼い僕は「戦争なんてあるわけないのに。相変わらずママは心配性だなぁ」と思ったことまで、鮮明に覚えています。
遺書には、母親への感謝、「会いたい」という想いを綴ったものが、多くありました。
「自分は、なんて幸せなんだ」
と思いました。
5.父になりもう一度訪れたくなった
今回、37歳になった僕が改めて知覧を訪れようと思ったのは、自分自身が父親になったからです。
父になって得たものはたくさんありますが、その1つに「父親目線」というのがあります。
例えば、クレヨンしんちゃんを観ていても、以前は当たり前に「しんちゃん目線」だったのが、
「ひろし目線」で物語を追っている自分に気づく。みたいな。
父親になった自分が、どのように感じるのかに興味が湧いたのです。
6.感じ方は違った
不思議なもので、前回と今回では遺書との「出会い」が違いました。
僕は並ぶのが好きではないので、
前回も今回も、大量に展示された遺書の中から、
空いていて誰もいないガラスケースを探し、その中にある遺書を順不同で読む、という観覧の仕方をしていました。
それなのに、
前回は「母親に宛てた内容」が目に止まり、
今回は「父親に宛てた内容」や、「子どもに宛てた内容」が目につきました。
当時の結婚年齢が今よりもずっと若かったとはいえ、
平均年齢21.6歳の子ども達はやはりまだ幼く、
遺書の中には、「まだ文字が読めない我が子に宛てたもの」があったりして、
今の自分と重なりました。
僕はこうして『遺書』を書いているわけですが、
約80年前のそれは、わずか数枚の紙に手書きされた、短いものです。
「明日出撃する」という恐怖もなく、「もう会うことができない」という悲しさもなく、
パソコンに向かって、書いたり消したりを繰り返しながら、何千文字、何万文字も書くことができる。
そんな現代の当たり前に、強い感謝を覚えました。
置かれている状況や、フォーマット、内容の切実さはまったく違う。
なのですが、
「愛する我が子のために、言葉を残したい」という父親としての気持ちの部分は、たぶん共感していい部分があって、
もちろん内容は全然違うのですが、「パパ友」の話を聴いて「そういうのあるよねぇ」とカジュアルに共感するような、そういう感覚も覚えました。
そして、共感できるという事実は、
「自分と同じ感覚を持った人が、そう遠くない過去に、戦争の抗えない力の中で亡くなっていったのだ」
という感想を、重力を持った実感に変えていきました。
7.虚構に引きづり込まれ、我を忘れ、人生を終える
僕は約8年間、エンタメ、スポーツの業界でスタートアップをやっていました。
その中でいつも感じていたのは、「熱狂し我を忘れた人の群れに対する恐怖」でした。
今回、たくさんの遺書を読ませてもらいながら、
「逃げて欲しい」と何度も思いました。
でも、よく語られるように、
時代の空気や価値観がそれを許さなかったのだと思います。
遺書の中には、たくさんの「国と家族のために散ることは名誉である」といった趣旨の記述があります。
それが、当時の方々を支配した、その時代の価値観、虚構だったのだと思います。
我を忘れた群衆が、我が子の腕を掴み、
グイグイと引っ張って連れていってしまうイメージが頭の中に湧き、恐怖しました。
歴史を学べば、
それぞれの時代にたくさんの虚構が存在したことがわかります。
宗教や集団を形成するもの、◯◯主義、◯◯派と呼ばれるようなもの。
身近なものだと「◯◯推し」みたいなものもだし、企業が掲げるVision/Mission/Valueみたいなのもそう。
(子ども達がこれを読む頃には死語になってたりするのかな?)
人類を強く発展させたもの、多くの人を幸せにしたものもある。
虚構自体は空気のように、当然にあって、ないと困るものだと思います。
今この瞬間も、いろいろな虚構の影響を受けながら、僕たちは人生を送っている。
そんな中で戦争の虚構は最悪で、
個人の命にとってクリティカルに暴力的な価値観を正当化してしまう。
みんな、「死にたくない」という価値観を持っているはずなのに。
知覧の遺書には「悲しまないで」とか「大丈夫です」といった言葉がたくさん綴られていて、
それは「死にたくない」という前提にたった、打ち消しの言葉たちです。
それが、とても悲しいと思いました。
8.母の言葉を、改めて伝えたい
2024年現在の日本が完璧だとは思いませんけど、
少なくとも、個人の命にとってクリティカルに暴力的な価値観が支配的ではない点は、本当にありがたいと思います。
損得や格差の話はあっても、生きていける。
国という大きな単位ではなく、もっと小さな集団の中においても、
「集団を支配する虚構」は、いたるところに存在しています。
それはもう、そういうもの。
程度の差こそあれ、あらがいようのない不条理はいたるところにある。
集団を支配する虚構がいい物だろうが、不条理だろうが、
基本的にはノリ良く、客観的な視点をもちながら乗りこなした方が、人生は楽しいと思います。
文句ばっかりいっても仕方ない。
でも、
「これは自分にとってやばいな」と思ったら、
真っ先に逃げてください。
戦争は、その最たる例。
熱狂し、我を忘れた人の群れに引き摺り込まれて、
自分もまた我を忘れてしまわないように。
母からもらった言葉を、ぼくも自分の子ども達に伝えたい。
お願いだから、戦争に行かないで。
生きてる方がいいから。
あと、知覧特攻平和会館は、ぜひ行ってみて、
僕が生きているうちに感想を聞かせて欲しいな。
よろしく。