箱庭の中のセカイ
皮肉な程に、メリーゴーランドは輝いている。
期間限定のイベントで設けられた小さな小さな遊園地は、
まるで私たちの別れを歓迎するかのように、
愉快な音楽と、光を放つ。
達哉はまだ知らない。
今日、私が別れ話を切り出すことを。
「スッゲーな! 2ヶ月限定のイベントなのに、こんなにちゃんとしてるんだ」
大学生の達哉は、髪をほんのり茶色に染めている。
私の会社には、茶髪の男性社員は一人もいない。
そのせいか、達哉はとても幼く見える。
「ほら向こう、出店もあるぜ」
私より2歩前を歩いて、はしゃいでいる。
クリスマスマーケットの出店は、
ピザやソーセージ、クラフトビールなどの変わり種が並んでいた。
こんなに冷えた夜は、好きなビールも飲む気になれない。
「杏、寒いんだろ。向こうにスープ売ってるよ」
私は達哉が促すままに、クラムチャウダーを頼んだ。
達哉は張り切っている。
きっと、私の元気が無いのは疲れだと思っているのだ。
私は今、この場にいるのが億劫なだけなのに。
達哉の空回りが、気の毒だ。
早く、終わりにしてあげなければ。
クラムチャウダーは確かに温かかった。
私の手に、じんわりと熱が伝わってきたのが分かる。
だけど、味は分からなかった。
私の頭の中は、達哉に投げかける言葉でいっぱいだったのだ。
「メリーゴーランドに乗ろうよ」
達哉の声が脳内に届くまで、数コンマ分かかって、私はようやく顔を上げた。
カップルや家族連れが、皆笑いながらそこにいる。
あれ程に眩しいところへ、私は行く勇気が無い。
「ちょっと、メリーゴーランドは…そんな歳じゃ無いし」
「どうしても乗りたいんだ」
達哉の口調は珍しく真面目で、思わず萎縮した。
そうして私の返答を待たず、スタスタと歩き出してしまった。
そのとき私たちのいる場所はとても暗くて、達哉がどんな顔をしていたか
イマイチ分からなかった。
ただなんとなく、彼は寒さに耐えながら、
ズルズルと鼻を鳴らしているのが聞こえた。
「はーい!メリーゴーランド、1回300円ですよ。
お好きな乗り物を選んでね!」
担当らしきお姉さんは、襟元に大きなファーの付いたコートを着ていて
とても暖かそうだった。
彼女もアルバイトに違いない、若さ故の覇気がある。
私は達哉に声を掛けぬまま、2人乗りの馬車に座った。
達哉は、その後ろの馬に跨る。
向かいに座るものだと思っていたので
思わず振り向いて、達哉の方を見た。
「杏には一生追いつかないんだな、きっと。
こんな感じで」
メリーゴーランドが、動き出す。
安っぽい音楽と共に。
まるで祖父の家の物置から出てきたオルゴールのような、
古びた陳腐な音楽だ。
周りではしゃぐ小さな子どもや、
写真を撮りまくるカップルの声など聞こえずに、
私たちは黙ったまま、同じ方向に回るそれらに身を任せる。
メリーゴーランドが止まったら、
私たちはそこでお別れだ。
無意識に、指にはめていたリングを触る。
2年記念日に買ったペアリング。
私は今日まで、デートの日は毎回付けていた。
それは癖でもあり、一種の呪いでもあった。
リングを外して、内側を眺める。
『TATSUYA & ANZU 20xx.3.14』
ぐるっと一周、イニシャルが彫ってある。
若気の至りだ。
こんな寒いことをしていた自分に思わずフッと笑う。
その瞬間。
悴んだ指先からリングが抜け落ち、カランカランと転がっていった。
私たちの動いている方向と逆向きに、リングが転がる。
達哉が口を開けてこちらを見たのを、一瞬視界に捉えたが、
その言葉を聞くまでもなく、
頭で考えるでもなく、
私は馬車を降りて、リングを追いかけた。
「危ないですよー!運転中は、乗り物から降りないでください!」
懸命にリングを追いかける。
生まれて初めて、私はメリーゴーランドの回る方向を抗って、
反対方向に走り出した。
「杏、危ない!」
達哉が馬から降りようとしたのが分かった。
だけど私はその瞬間、突然の地面の揺れに耐えられず、
体勢を崩したまま、フワッと両足が地面から離れてしまったのである。
ーここは今までずっと、
私の舞台だったのだろうか?ー
場面が転換するかのように、しばらく視界が真っ暗だった。
なので、ゆっくりと目を開いた瞬間にも、
ぼんやりとしていてイマイチ状況が分からなかった。
少しずつ分かったのは、とても静かなこと。
そして果てしなく広いどこかで、私は横たわっていることだった。
身体を起こして見回すと、遠くから1人、見知らぬ人間が駆け寄ってきているところだった。
誰か居るということに僅かな安堵を抱いていると、
小さな音が、鼓膜の奥へ流れ入ってくるのに気がついた。
どこかで聞いた事のある、安っぽい古びた音楽。
「あんた、大人か??珍しい」
腕を差し出してきたので、ようやく立ち上がることを思い出し、
私は背中辺りをポンポンと叩いて、汚れを落とそうと試みた。
「あの、ここは…?」
「あんた、メリーゴーランドで暴れたか?
ここはメリーゴーランドの外の世界だよ」
人工的な灯は無いので薄暗く、何かに例えるなら森の中とでもいうべきか。
ただ先ほどのような刺さる寒さは感じられず、
少なくともここが、クリスマスマーケットの会場では無いことが分かった。
「メリーゴーランドの外とは?」
「あんた、知らないと思うけど、
メリーゴーランドは全部箱庭なのさ」
男は足元を指さした。
足元で、聞き覚えのある音楽と、
それから、見覚えのある風景が、小さな世界で動いている。
先ほどのメリーゴーランドだった。
「そんな、だって私はこの中に居て、
どうして今これが、こんなにも小さいんですか」
無意識に先ほどの景色を辿ってしまうが、
私も達哉もそこには居ない。
「それは、この中にいるときはこの中にいるし、
外に出たら俺らと同じになるわけだ」
頭がこんがらがる。
だけど思うに、私は箱庭のような小さなセカイから、
うっかりその外の、大きなセカイに飛び出してしまったようだった。
「たまにはしゃいだ子どもがやってくるけど、
あんたみたいに元々大きな奴が来るのは珍しい」
周りを見回すが、他には誰も居なかった。
男は幼いような老け込んだような顔をしていて、
邪心の無さそうな純粋な瞳でこちらを見つめている。
全てを知っているような、それなのに無垢な彼の表情は、同じ人間では無いような気がした。
「どうやったら帰れますか」
「…それは分からない。ただ今までの人たちは、何かしらの出口を見つけて帰って行く人が殆どだ。
多分、帰ることができなかったのは俺1人だ」
返事が出来なかった。
きっと沢山の年月の間に、誰かがやってきてまた去って、1人になって来たのだろう。
可哀想だとは言わなかった。
私だってきっと、ここに残る選択肢はできない。
「このメリーゴーランドの中に飛び込めば、きっと」
私は片足を持ち上げて、メリーゴーランドの中へ入ろうと試みた。
「なんてことするんだ!メリーゴーランドを潰す気か!これは箱庭なんだぞ」
男は慌てて、私のことを抑え込む。
私はその力に負けて、
ズサっと倒れ込んだ。
空はまばらに輝いている。
これは私たちの見る物と同じ、星なのだろうか。
こんなにも何も無い場所で、
彼は何をしているのだろう。
私はふと、自分が探すべきものを思い出し、慌てて起き上がった。
「この辺に、指輪落ちてませんでした?
ゴールドで、シンプルなやつ」
男は辺りを見回したが、首を振った。
「大事なものなら、一緒に探そうか」
男はそう言うと、また視界を隅々に見回した。
大事な物、なのだろうか。
頭によぎって、つい考え込んでしまう。
「ここは何も無い。
だからみんな、考え込むんだ。
答えが見つかれば良いけれど」
男もそのまま、静かに座ると
何かを考え込んでいるように
一点を見つめ始めた。
そこからはもう、声を掛けても返事はしない。
私は歩き始めることにした。
今考えている正解と、
ここから出る為の正解を探したかった。
僅かに鳴っていた音楽も、
だんだんと聞こえなくなっていく。
果ては見えなかった。
ずっと続いているようだった。
今まで来た人たちは、
こんなに広いセカイの中で、
どうやってあの小さなセカイに戻って行ったのだろう。
もう要らないはずの指輪を、
私は何故咄嗟に追い掛けたのだろう。
分からなかった。
振り返ると、男の姿はもう見えなかった。
不安と焦燥と、それから諦めが混ざった私は
力いっぱいの大きな声で叫んだ。
その声は何処かでこだまして、私の元へ戻って来る。
また声を上げる。
戻って来る。
こんなに大きな声を出すのは久方ぶりで、
懐かしい気持ちが蘇って来た。
達哉と山を登った時だ。
ヘトヘトになって頂上まで達した時、
私たちは純粋な歓喜で叫んだのだ。
その声はしっかりとこだましていた。
あの時ぶりだった。
きっと今同じ山を登っても、私はあの頃のように力いっぱいには叫べない。
変わったのは私。
変わってくれない達哉に苛立っているのも私。
振り回される達哉が可哀想で、
私は別れを選んだのだ。
未練があるのだ。
彼とのペアリングを手放す事に。
彼はまだ学生だ。
たしかに私は、彼の子どもらしい部分に嫌気を差すことがある。
だけど
ずっとずっと、彼が私に追い付く時を、
楽しみにしているでは無いか。
それは今すぐでも無くて良いから、
寧ろ、ずっと先の方が楽しみでは無いか。
なんだか途端に清々しい気持ちになって、
私は真っ直ぐ走り出した。
そこに居るわけでは無いけれど、
達哉の元に帰りたくなったのだ。
ずっと同じ景色。
だけどいつか、急に何かが現れる筈だ。
先ほどの男は、こんなにも一生懸命走ったことはあるのだろうか。
この先の景色を知っているのだろうか。
私の高揚した気持ちは、
突然の痛みと共に遮断された。
「痛い」という間もなく、
急激な額の痛みと共に、再び世界が暗転したのである。
「杏…?」
先に意識が戻ったのは耳のようだった。
真っ暗な世界に、聞き覚えのある声が聞こえた。
「良かった!もうーびっくりさせんなよ」
目の前には達哉がいた。
どうやら私は白いベッドに寝かせられていたようだ。
額を触ると、ひんやりとしたプラスチックが当たっている。
水のペットボトルだった。
「ここは?」
真っ白で何も無い。
だけど、達哉が居る。
「救護室。俺慌てて自販機で冷たい飲み物買いに行ってさ、売り切れてたのに連打しちゃって。焦り過ぎだよな」
反対周りのメリーゴーランド。
売り切れの自販機のボタン…。
何か情緒が崩れそうな、繊細な線の上。
「ありがとう」
達哉は安堵したのか、そのまま床に座り込んだ。
そしてゆっくりと呼吸をして、
私の方へ、言葉を放った。
「…別れようか、杏」
私は黙ったまま、暫く目を開いていることしか出来なかった。
「俺は多分、ずっと杏には追い付けない。
あのメリーゴーランドみたいに」
何も言えなかった。
そう思わせたのは、間違いなく私だ。
大人ぶっていのは、誰よりも私に違いなかったのだ。
「分かった」
私はゆっくりと立ち上がって、
救護室を出た。
係りの人の心配した声に返事もせず、
達哉の方を振り返ることもしなかった。
メリーゴーランドは変わらず回っている。
私はふと、薬指に指輪がハマっている事に気が付いて、
ようやく涙を流せたのだった。
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