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(創作)彼女と部屋、そして流れる時間

その家に入ると、モーツァルトのピアノソナタが流れていた。小さなラジカセから、まるでどこか遠い昔から響いているような柔らかい音色が、部屋の空気に溶け込むように漂っていた。鍵盤が奏でる音のひとつひとつが、まるで時を止める魔法のようだった。

女性はベッドに横たわっていた。彼女は目を閉じて、まるでその音楽に全てを委ねているように見えた。呼吸のリズムは穏やかで、顔には静寂そのものが宿っていた。彼女が何を感じ、何を考えているのか、僕にはわからない。でも、その静かな存在感が、この部屋全体を支配しているように思えた。そこには彼女と音楽だけが存在していて、僕はその中に入り込む異物のような気がした。

僕はゆっくりとその部屋に足を踏み入れ、彼女のそばに置かれた椅子に座った。こうして彼女のもとを訪れるのはもう何度目になるだろう。彼女はいつも目を閉じている。そして、僕が何を言っても、何をしても、返事をすることはない。それが彼女とのルールのようなものだ。

「この曲はピアノソナタですよね」と、僕はいつものように声をかけた。自分の言葉が空気の中でどう響くかを確かめるように、少しだけ間を置いた。彼女が返事をすることはない。それはわかっている。でも、言葉が音楽に溶け込むように響いてくれれば、それで十分だった。

その時だった。彼女の表情が、ほんのわずかだけ変わった。目は閉じたままだったが、口元の筋肉がかすかに緩んだように見えた。何かが彼女の中で動いたのだと感じた。小さな波紋が静かな湖面を揺らすような変化だった。僕はそれを見逃さなかった。いや、見逃すはずがなかった。

遠くから、包丁がまな板を叩く音が聞こえてきた。そのリズムはモーツァルトの旋律と妙に調和していた。それは生活の音だった。だが、それは単なる雑音ではなく、この家の一部であり、彼女の時間の一部であるように思えた。音楽と包丁の音、そして彼女の微かな表情の変化。それらすべてが混ざり合い、何か言葉にならないものを作り出していた。

部屋の隅には古びたタンスが置かれ、その上には家族写真が並んでいた。彼女が若い頃の写真もあった。色あせたセピア色の写真の中で、彼女は笑っていた。その笑顔は、今目の前に横たわっている彼女とどこかで繋がっているはずだった。でも、僕はその接点を見つけることができなかった。それは時間が作った深い溝のようなものだった。

僕は彼女の手に触れた。冷たくもなく、温かくもない手だった。それは静かで、無言の意思を持っているように感じた。僕はその手に軽く圧をかけ、リハビリの動作を始めた。彼女の腕を動かしながら、僕は自分自身に問いかけていた。この動作に意味はあるのだろうか。彼女の身体に何かをもたらすのだろうか。それとも、これは単なる僕自身の儀式に過ぎないのだろうか。

「音楽、好きですか?」と、僕はもう一度声をかけた。その声が自分の耳にも頼りなく聞こえた。でも、言葉を投げかけることは重要だと思った。彼女が返事をしなくても、何も変わらない。それでも、その静かな空間に声を届けることに意味があるように思えた。

その時、彼女の口元がほんのわずかに震えた。いや、それは僕の錯覚だったかもしれない。部屋の中で流れるモーツァルトの音が、彼女の表情を作り出したのかもしれない。真実はわからなかった。でも、僕はそれで良いと思った。

その家を出る頃には、日が少し傾き始めていた。風が冷たくなり、近くの畑から土の匂いが漂ってきた。僕は自動車に乗り、次の訪問先へ向かった。背後で、あの家からモーツァルトの音楽が微かに追いかけてきているような気がした。それは僕に何かを伝えようとしているようでもあり、ただ静かに見送っているようでもあった。

音楽は途切れることなく流れている。彼女が目を閉じたまま、何も言わないのと同じように。それがこの世界のリズムだった。

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