せめて肩の力を抜いて、虚心に、ことば通りに読もう

初心の頃は一首一首の歌に期待する気持ちがすごく強かった。何が起きるんだろう、何が書いてあるんだろうと期待して、上からだんだん読み下ろしてゆき、思いがけない表現に出くわしてびっくりしたり、どきどきしたり、美しさに目が眩んだりした。感動した分打ちのめされて、歌を書こうなどとしなければよかったと思ったりした。あるいは期待しすぎて一人勝手に失望することもあった。なんでこの歌はこんな終わり方をするんだろうとか、このことばが違うものだったらいいのにとか、何でこんなに落ち着きはらって終始静かでいられるんだろうなどと、自分の狭小な好悪をぶつけたり、未発達で野蛮な物差しで測ってがっかりしたり憤ったりしていた。情緒不安定で、歌に対して無礼な読み手であったことを、当時出会った歌の数々に謝らなければならない。

歌に対して期待をしなくなったわけではないが、かつてほど過剰で異常な期待を対象にぶつけることは少なくなった。相変わらず未熟な読み手であるとしても、せめて肩の力を抜いて、虚心に、ことば通りに読もうと思うようにはなった。

・ゆふぐれのこどものやうに手を振ってあなたは泡にわたしは灰に

先日の歌会に出した拙詠。こちらに対し、泡から人魚姫を、灰からシンデレラを連想し、物語の世界観がばらけるのではという意見が出た。
こういうことばを使うと、人はまず歌の底に物語の世界があり、その上にもっと素敵な何かが起きると期待してしまうのかもしれない。
何の含意もないただの泡、ただの灰を言うためにはどうすればいいか。書く側はまだまだ考えなければならない。

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