短歌の鑑賞について考える ――感染し、変容せよ
中島智さんの美術鑑賞についてのポストを折々読んでいる。今まで考えたり読んだりしたことのない方面の文章。わからない、難しい。でも何かそこに、短歌や詩を書く・読む上にも援用できる大切なヒントがありそうで、気になって読んでしまう。
上に引用した文章もそのひとつ。この文章を自分の身に引き寄せ噛み砕いたことばにしてみたらどうなるか。
・短歌の鑑賞とは、歌の「イメージ」の解釈ではなく、短歌を詠むという「行為」の感染である。
・象徴界(verbal thinking=行動を伴わないことばだけの考え)でつるむな。
・ニンゲン(identity=自己同一性)から出ろ。
・感染(metamorphosis=変態)せよ。
・「行為」に憑依せよ。
難しいけれど、面白い。そうか……従来漠然と、歌がどんなイメージを描いているかを読み解き、そこから作者が言わんとしていることを感じ取るのが短歌の鑑賞だと思ってやってきたわけだが、それだけではないのか。例えば、正岡子規だったら子規の歌を読み解くこと、味わうこと、それに触発されて歌を書き、影響を受けたり考えを深めることによって従来の自分の枠から出て自分を変容させてゆく、それらの行為全部が鑑賞なのだということか。
そう考えると何だか(単純すぎる反応かもしれないが)短歌の鑑賞がわくわくする大冒険のように思えてきた。短歌の鑑賞文を書く時、ともすれば読みが間違っていやしないかと萎縮しがちだったけれど、感染し、自分を変容させる「行為」だと思えば、解釈の正誤とはまた別に、自分が変わってゆく過程で感じたことをもっと率直に書いていってもいいのではないかと思えてきた。
そんなことを考えながら書いていて思い出したのが、中島智さんが折々書かれている「身がさねする」ということば。鑑賞者が作者に身がさねするというのは、この「行為」のことを指しているのかもしれない。