短歌同人誌「Cahiers カイエ あれから」を読む
聖堂の祈りがみどり児に向けられたものなのか、それとも偶然祈りの場に居合わせた子なのか。それはわからないが、この一首にはみどり児の生命力と、それを祝福する気配が満ちているように思う。
葛原妙子の「疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」という歌を連想した。
女性の声の高低にはどういう意味があるのだろうと考えてしまう。よそゆきの声などという言い方もある。電話に出ると声が甲高くなる人もいる。声を半音下げ、身構えず、より素に近い声で話せば、女の枠が外れてゆく。そして中からひとりの、性別にとらわれない本質としての人間が現れてくる。
七夕の笹飾り笹は、伐ってから日が経つとだんだん緑が褪せ、葉も干からびて縦に細く巻き上がってしまう。そして伐りたての笹より、しばらく飾って乾燥した笹の方がさらさらとよく鳴るのだ。夕風、笹の音、そして涼しさ……と、どこにも無理や力みのない描写が心地よい。
谷川俊太郎の「朝のリレー」ではないが、夕暮も常に地球上を巡っている。当たり前といえば当たり前のそのことを捉えて「世界をわたりここへ来た」とことばに書くと、詩情が生まれる。「神戸大橋」ということばがあることで、作者が立っている場所、目の焦点が読み手にもくっきりと伝わってくる。夕暮が橋(橋のシルエット?)を空にうかべる、という言い回しも素敵だ。