11 変えられた信仰のかたち
明治初期の神仏分離は寺院のみならず神社のあり方にも大きな影響を及ぼしています。
今では想像できないかも知れませんが、当時、神社の社殿などに観音像が祀られているのは珍しいことではありませんでした。
これが廃止となり、天照大神の系統以外の神々を祀ることも禁止されました。また、道祖神信仰や地蔵信仰、修験道なども非文明的な民間信仰と位置づけられ、禁止となったのです。
日本には各地域ごとの土俗信仰があり、それが地方の特色や誇りにもなっていました。
ある日突然「神社あらため」として役人がやってきて、古くから人々が大切にしてきたご神体を曝き、代わりに別のご神体を設置し、「これからは○○神を祀るように」と一方的に指示する。
こうした威圧的な行為は信仰心の根幹を傷つけかねません。
このようなことが起きてしまった原因のひとつは、明治初期は国学者が政治に関与していたことが挙げられます。
幕府を否定し、仏教を「邪宗」と決めつけ、極端な国粋主義的思想に傾いていた国学者の中心は平田篤胤の平田派ですが、さすがの明治政府も極端な復古神道主義に危機感を抱いたのか、次第に平田派を遠ざけるようになっていきます。
それに伴い、徐々に廃仏毀釈の嵐は静まっていきますが、時すでに遅し、寺院はもちろん神社のあり方も、もとの状態には戻すことが出来ませんでした。今、私たちが認識している神社や寺院の様子は、かなり変わってしまっていると受け止めて間違いありません。
神社仏閣が傷つけられたりしたら、たいていの人が「なんということを!」と憤ることでしょう。
もちろん明治初期にもそう感じる人は存在しました。
特筆すべきは、来日した外国人の多くが、ともすれば日本人以上に危惧していたことです。
まさに灯台もと暗しとしか言いようがありませんが、外国人に指摘されることによって、当時の日本人も日本の伝統文化の価値に気づかされたのです。
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