瞑想リトリートについて
宗教的探究、「意識」や「霊性」といったものの探究といったマニアックな目的を持って瞑想、マインドフルネス、瞑想やプラーナヤーマ(呼吸法)を重視するヨガに取り組む人がいます。
特にこういったマニアックな探究の人たちの中には、ある時期になったら、瞑想リトリートの必要性を感じるようになる人もいるかもしれません。
瞑想リトリートの必要性や目的をしっかり認識して、スマートなリトリートのやり方を考察する必要があるでしょう。
BGM:アントワーヌ・ブリュメル Antoine Brumel、Sequentia Dies Irae Dies Illa
リトリートの必要性
このnoteの方針としては、誰に対しても長時間の瞑想やリトリート瞑想をすすめません。
瞑想のような実践に没頭しすぎることは、副作用、リスクがあり得ると、しばしば他のnote記事で述べてきました。
関連note:『魔境』の話① 瞑想・ヨガ・生命エネルギーの実践における魔境
豊かな自然や健康的な食事、観光を楽しみながらヨガや瞑想をする「バカンス・リトリート」なら問題ないと思います。
瞑想リトリートの必要性があるのは、、、、
、、、、こういったのを満たす場合でしょう。
心身の健康など軽い目的なら、このnoteで触れるようなリトリートは必要ないと思います。
リトリートによる体験・影響が、そのような軽い目的を凌駕することがあり得るので、適切な態度が維持できなくなることも考えられます。
リトリートの標的は「内的状態」
リトリートの目的、効果については、様々な観点から説明する人たちがいます。
リトリートの標的(目的・目標)は「内的状態」であると私は考えています。
そのため利点として注目したいのは、主に以下の2つです。
時間と環境が確保され、実践に集中できます。
こういった状況では人間の意識ー神経生理が「日頃の喧噪に順応した状態」から「内的な状態(活動)」に向かいやすくなります。
・作用 ―― 内的状態である『第三の状態』
日常の喧噪のために活動する意識ー神経生理が抑制されることになります。
その分だけ内的状態に親しみやすくなります。
この内的状態というのは、このnoteで言う『第三の状態』のことです。
関連note:ヨガ・瞑想における意識ー神経生理の『第三の状態』?
この第三の状態の意識ー神経生理は、日常の、通常のものとは違ったものであり、そして、この第三の状態の現出に適した状況・環境があると考えられます。
それが瞑想リトリートです。
リトリートによって日常の喧噪から離れ、外界へと向かう意識ー神経生理の活動を抑制し、内的状態に向き合おうというのです。
また、ある程度の時間この第三の状態、瞑想に没頭する必要のある実践者の場合には、リトリートはまことに適した環境です。
実践者の段階によっては、体験を深めるために、あるときは10分、20分、またあるときは30分、1時間とか、細切れの時間では足らなくなることがあります。
ちなみにチベット密教では長期間のリトリートがなされることがあるというのは、欧米でも知られるようになっています。
特にカギュー派や「ゾクチェン」で有名なニンマ派のリトリートが知られているようです。
インド・ヨーガでもリトリートはなされるようです。
内丹(仙道)でもリトリートが必要とされる段階があるとされます。
特に大周天の周辺やそれ以上の段階においてです。
正しいリトリートの設計
リトリートの実践は正しくマネジメントされ設計されるべきだと思われます。
要点としては、「リトリートの標的は内的状態」という原則に基づき、、、
、、、というものでしょう
・正しい態度
リトリートに臨む上での正しい態度というのは、背景や信仰などに応じて様々な考えがあると思います。
信仰があるのなら、祈りの態度で過ごすとかいろいろと言えるのでしょう。
この瞑想する人noteでは「霊性」というのを重視しています。
そのため、リトリートの間は「霊性(の理解・実践)のための没頭」というのが正しい態度として提案します。
・適した環境
適した環境というのは、内的状態に没頭しやすいような状況を整えるということです。
社会の喧噪から離れた、自然のあるところが良いでしょう。
食事に関しても簡素なものとして、「嗜好」など、感覚を刺激するようなものは避けた方が良いでしょう。
・苦行ではない
苦行のような心身に負担のある実践の評価については、諸説ありえるのかもしれません。
苦行によって「自己の殻を破る」と言う人もいます。
私は、滝行など含めて、苦行・荒行はナンセンスなものが多いと考えています。魑魅魍魎に通じるものが多いと考えています。時間の無駄です。
苦行は健全にマネジメントされたリトリートにはふさわしくないと考えています。
リトリートは内的状態を標的にするものであり、滝行など苦行なんかよりも、もっとスマートなやり方があるように思われます。
チベット仏教の(高度なものとされる)修行では、師が弟子の心身を理不尽にも思える方法で追い込むことによって悟りへと導く、ということがあると伝えられていて、苦行的なものですが、これは特殊なものです。
こういった苦行的な発想を、安易にリトリートに適応してしまうのは危険に思われます。
断食(ファスティング)については苦行の一種と考える人もいるでしょうが、この断食は正しくマネジメントされれば有効なことがあると思われます。
テクニック的なもの ―― 断食、断眠
リトリート中にあわせて行うテクニック的なものとしては、食事の制限が考えられます。
食事量、カロリー、内容の節制です。断食(ファスティング)も含まれます。
食事の制限については、もっと思索が必要なのですが、内的状態のためにも効果的なことがあると感じています。
ただ断食を用いる場合には、健康上のリスクについても理解し、適切に行う必要があります。苦行には関心がないので。
リトリート瞑想などで「断眠(睡眠断ち、睡眠の制限)」を用いる人がいるようです。
禅の修行でもなされることがあるようです。
今の私には、この評価について述べるのは難しいです。
精神的・神経学的なリスクは考えられるので、理解がない場合には安易にやらない方がいいかもしれません。
瞑想に没頭するリトリートのような状況で、断眠を取り入れた場合に起こりえることとしては、現実感覚・認識が混乱した体験が生じやすいということです。
(なにをもって「現実」とするのかとか、そういった小うるさい話には今は触れません)
明晰夢、幻覚、体外離脱体験などが生じやすくなると考えられます。
「今、自分は幻覚・夢見の世界にいるのか、それとも、現実の世界にいるのか」と混乱するような意識状態に容易に突入するようになる可能性が高まると考えられます。
夢・明晰夢と幻覚と現実世界の認識が混じり合ってしまうみたいな事態です。
リトリート瞑想自体にも、そういったリスクはあると思われますが、断眠を用いた場合には、激しいものとなりやすいと考えられます。
ちなみに、ニンマ派などのチベット密教の修行では、夢見・明晰夢を利用する修行があって、そういったのに関して「断眠」も行われることがあるようです。
関連note:明晰夢でヨガをする。チベット密教「夢のヨーガ」
明晰夢のリスクについては