「智慧」と「慈悲」について
春の大三角(アークトゥルス、スピカ、デネボラ)
この瞑想する人noteでは仏教の『智慧』、『慈悲』という用語を剽窃して用いています。
この瞑想する人における「智慧」とはどう考えればいいのでしょうか?
今回のnoteは結果としては、「エゴのない愛」「自己超越」といった内容があるため、欧米キリスト教圏のよくあるスピリチュアルに寄った話になっているかもしれません。
「内なるものへ・超越」の欲求と「智慧」
「内なるものへ・超越」の衝動・欲求、その歓喜などが、この瞑想する人noteで思索する「智慧」に関係するのかもしれません。
生物学的な個体差はあるだろうけど、人体の神経生理・生物学的基盤に根ざすものとして、人間には内なるものへと向かおうとする衝動・欲求があるのではないかという考えを持っています。
また「超越」への欲求というのもあるのではないかとも考えています。
人間の意識ー生命の活動において、物質性や小さなエゴの軛を超越する精神性・意識に向かおうという衝動・欲求です。
このような欲求の進化生物学的な起源としては、まぁ、なんとでも考えられます。
たとえば、過酷な生存環境に耐える能力に関係していたり、人間には精神・想像力があり創造性を発揮する脳ミソがあることだったり、共同体の秩序や奉仕、種の保存に役立つ、、、などなどです
「ミラー ニューロン」なんかもなにか関係があるのかもしれません。
「慈悲」との関係?
予定調和過ぎるかもしれませんが、この「内なるものへ・超越」の欲求―――人間の意識ー生命の活動において、物質性や小さなエゴの軛を超越する精神性・意識に向かおうという欲求――― が「慈悲」(エゴのない愛、愛他、利他、もしくは「四無量心」)に関係するのなら、これは、私にとってはとても望ましい思索の展開です。
そうであるならば「内なるものへ・超越」の衝動・欲求、その歓喜に関係するものであり、かつ、それと「慈悲」を積極的に結びつけるものの内に、「智慧」というのを見いだすことができるかもしれません。
「慈悲」自体が霊的・霊性的なものであり、かつ、「内なるもの・超越」の精神性の発露であるとも言うことができるかもしれません。
宗教・精神性の伝統においては、この「内なるものへ・超越」の欲求というのは、しばしば「グノーシス主義」的なものを濃厚にまとうことがあったのではないでしょうか。
つまり世俗、現実社会、人間の社会性を否定したり軽んじたりする傾向です。
そしてこのような傾向、態度というのは、今日のような発達した科学・物質文明では当然のことながら軋轢を引き起こすものであり、実際に問題が生じているように思われます。
私としては現代の文明が宗教の迷信に譲歩する必要など、まったく無いと考えています。
しかし「内なるものへ・超越」の欲求が、「慈悲」(エゴのない愛、愛他)に結びつくのなら、今までとは違った態度、やり方で探究することができます。
これは望ましいものだと私には思われます。
関連note:【ラムリムにおける統合!?】キリストの道、菩薩の道、バクティ・ヨガ、密教、瞑想 / もし神が存在するのなら、どこに?
記述の難しさ
「智慧」が以上に述べたようなものならば、これを言語で記述して説明するのには、特有の困難さがあるかもしれません。
またその困難さゆえに、ある特徴もあらわれやすいと言えるかもしれません。
つまりスピリチュアル、精神論、宗教信仰的なイメージをまといやすいということです。
たとえば上座部仏教の智慧であれ、今このnoteで思索している「智慧」(こういったものがあるとするならば)であれ、それらはどちらも、神経科学的な(つまり脳ミソの)根拠・基盤があると考えられます。
だって人間が体験するものだから。
上座部仏教の智慧は、徹底的にヴィパッサナー(観)の瞑想によって体験される洞察智であり、それによる境地だろうと私は考えています。
これは個人の意識の体験に完結するものであり、その主観的体験・境地をあますことなく他者に伝えるのは不可能であるにしても、なんとか体裁をもって言語で記述され、説明もされてきました。
「ヴィパッサナーによって、このような体験をしてこのようなことを感得するだろう。そしてこのような智慧を得て、厭離が生じ、、、」といったように、個人の意識体験に完結する説明がしやすいところがあると思われます。
瞑想の意識の体験、境地に関する説明が伝承され、修行者によって参考にされてきました。
もちろん修行者自身が実際に体験し、つかみ取らなければならないものがあるにしても。
関連参考:十六観智(清浄道論)
しかし、今ここで述べている「内なるものへ・超越」の欲求・「慈悲」に関する「智慧」の場合にはどうでしょうか?
「慈悲」という他者性がある分だけ、説明がややこしくなりそうです。
、、、、という問いにどのように答えればいいでしょうか?
これには「神経科学的に、生物学的にそうなっているから」というのが、唯一の地に足ついた説明なのではないでしょうか。
では、こういった説明ができないとどうなるでしょうか?
スピリチュアル、精神論、宗教信仰を持ち出すことにならないでしょうか?
たとえば「ワンネス」とか「無条件の愛の神」とかです。
他にも「徳の集積」やら 「全ての人は、限りない六道輪廻のどこかの生で、自分を産み育ててくれた母でなかったことはない。なので自分の母親の恩に報いるかのように慈悲をもって、菩薩の心をもって接するべきだ」やら「地上世界から 苦しみが取り除かれ 歓喜と光明が もたらされるように」やらです。
言語で記述することが難しいからといって、神経科学的・生物学的な基盤が無いとは言えない、
説明がスピリチュアル・精神論・宗教信仰の様相をしばしば呈するからといって、そこに「智慧」が無いとは言えない
、、、、ということなのではないでしょうか。
大乗仏教の慈悲・菩提心について思うこと
仏教の歴史において、とくに大乗仏教において、難解な思想が発達する一方で、慈悲や菩提心がやたらと強調されるようになったのは なぜだろうか?と思うことがあります。
「中観」の空の思想みたいな、あんな難解な屁理屈と、慈悲や菩提心の強調との間にいったい何の関係性があるのかと奇妙に思うことがあります。
関連note:チベット仏教への関心 ―― 菩提心・慈悲、顕教・密教、ラムリム
これは人間の神経科学的・生物学的基盤に根ざす、意識・精神活動の自然な発露なのかもしれません。
そもそも仏教は、釈迦が、超越的な神々の信仰の救いに頼ることなく、自ら瞑想し自らの内に向きあい、智慧を得て悟りを得て始まったものです。
超越的な神すらも人間の釈迦に向かって「どうか法を説いてください」と請い願ったという神話があります。
後期仏教(チベット仏教)でも、瞑想を尊重する伝統が続いています。
このような濃密な瞑想的伝統において、「愛、愛他」といったものに関係する人間の神経生理的・生物学的メカニズムが発動し、駆り立てられ、思想・信仰・実践に取り入れられてきたのかもしれません。
最後にちょっとつぶやき
まぁ、ヴィパッサナーの修行体系から見ると、「は? 内なるものへの欲求?超越への衝動? なにそれ? そういうのも煩悩、粗雑な心のはたらきなのだから、気づきを大切にして、巻き込まれないようにしなければならない」のようになるのかもしれません。
「内なるものへ・超越」の衝動・欲求があるというのは、「内なるもの・超越の側」からも招かれ、求められているとも言えるのかもしれません。
もしこのことを瞑想や宗教的経験やサイケデリクス、臨死体験、、、などで体験した場合に、エゴのない超越的な愛、普遍的な大いなる愛、一なる神の愛などとして体験することもあるのかもしれません。