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霊性においての実践

この瞑想する人noteでは、宗教的な主張はできるだけ避けるという方針です。

この方針の背景にあるのは、瞑想も密教も起源は宗教にあるのではなくて、人間の生物学的基盤の中にあるという考えです。
瞑想も密教も神経生理的な、生物学的な実践であると考えています。

さらに向現実社会性を重視しようとする考えでもあります。

私個人としては解脱も悟りもモクシャも阿羅漢果も、とにかくそういった境地には関心がないし、このnoteにおいても扱わない方針です。

しかしまだ思索が不十分で分からないことだらけなのですが、密教、生命エネルギーに関する実践においては、宗教的な要素がどうしても生じてしまうように感じています。
つまり宗教的な伝統で説かれていたことを、この瞑想する人note参考にすることがあるかもしれないと感じています。

これに関しては霊性」において取り組む必要があるのではと感じています。

宗教の戒律と。例えば節制

密教において生命エネルギー活動を生じさせるためには、一定の節制(性の節制、禁欲)が必要とされます。

そしてこの「節制」自体はすべてではないにしても、いくつかの宗教、宗派において戒律などとして設定されています。

宗教において節制が説かれるのは、それぞれの宗教の考え方によって随分と違ってはいます。

性欲を魂の純粋さ、霊の清浄さを汚すようなマイナスイメージのものとして捉えて、「神の道にふさわしくない」とか「肉欲を克服する」などを理由とする場合もあります。

ヨーガや後期密教(チベット密教)においては戒律に加えて、生命エネルギーを生じさせるために、シャクティや「菩提心」を維持するということが理由となる場合があります。


瞑想する人noteの密教においては、いくつかの宗教のような「性欲は汚らわしい」という馬鹿げた理由からではなくて、神経生理システムにおいて生命エネルギーを生じさせるのに一定の節制が必要な仕組みになっているからとしています。

節制だけでは済まない?

宗教的な伝統で説かれている教義や戒律において、重なるところがあるのは、特に目立つものとしてはこの節制に関することくらいだろうと考えていました。
あとは宗教とは関係なく、やっていこうと思っていました。

しかし、これだけでは済まないのではと思うようになってきました。

生命エネルギーの活動や体験のためにも、それによる理解を深めるためにも、宗教的伝統において説かれてきたような「精神性、徳性」を参考にした方が良いという考えに私は傾きつつあります。


宗教において説かれてきたものを参考にするとはいっても、宗教や信仰それ自体を尊重しようとは全く思っていません。
現代先進文明においては、宗教は今後も復興のしようのない衰退勢力であり、文化遺産や観光資源、教養、セレモニーくらいしか占める場所がないものだと思っています。
ある種のものは粗大ゴミの扱いです。

生命エネルギー、チャクラなどとも。「霊性」において

生命エネルギーの体験においては、上昇(上向きの流れ)や下落(下向きの流れ)といった感覚が生じることがあります。

例えば節制に関して、ある場合にはムーラダーラやスワディシュターナのチャクラがあるとされる付近において、下向きの流れという感覚が生じることがあります。
またある場合には下向きの流れがせき止められ逆流し上昇するという感覚が生じることがあります。

これはあくまで主観、感覚、印象であり、ここではそのようなエネルギーや流れといったものが「実在」するものかどうかについて言及しているわけではありません。

このような「生命エネルギーの流れ」に影響するのは、節制だけではないように感じられるのです。

例えば感覚的な楽しみに対する態度、自己中心的な考え、愛他性なども影響するように感じられるのです。
これらのことも宗教的な伝統で、教義や戒律に組み込まれてきました。

またヨガの伝統でも言われているように、チャクラとも関わるのかもしれません。
例えば自己表現や愛他性には特にアナーハタ・チャクラ(ハートチャクラ)が関わるというように。

この瞑想する人noteにおいては瞑想も密教も内なる意識に関する実践であるとしています。
宗教や巷のスピリチュアルに偏らないためにも、この内なる意識という霊性において整理する必要を感じています。