菩提心(信仰心)について思索中。 瞑想は霊的同調?
思索中なのでまとまりなくだらだらと。
あくまでいつも通りの根拠のない宗教的、スピ的な話。
関連note
霊性への衝動は生得的か?
霊性、スピリチュアリティ、自己超越、内なる意識、、、へと向かおうとする欲求・衝動というのが、人間にはもともと備わっているのかもしれない。
これは精神論ではなくて、生物学的に神経生理システムにおいて、そうなっているのかもしれない。
生物学的な個体差も、もちろんあると思われる。
この欲求・衝動は瞑想ブームとかサイケデリクスへの関心とか、他にもヨガとか東洋的ボディワークへの関心にも関係するのかもしれない。
それにたとえ霊性を求める衝動があったとしても、それは「人間は霊的な存在であるがゆえの必然」「神がそのように人間を創造した」ということを示すものでは、かならずしもないだろう。
単なる進化の副産物であることも考えらる。
内なる意識、霊性からの呼びかけと信仰心(菩提心)
内なる霊性自体から、内へと向かうように招かれているとも言える。
これが霊性への欲求・衝動となっているのかもしれない。
つまりこの衝動の起源は、自らの内の霊性(内なる意識)だと考えることもできる。
この内からやってくる招きに、人が反応して呼応したものが、もしくは、その招きが認知されて人の精神活動において表現されたものが、信仰心・菩提心、大いなるものへの賛嘆、畏敬といったものかもしれない。
外なる信仰から内なる信仰へ
人間の意識の内に、霊性があり霊性からの招きというものがあり、それ自体こそが、信仰心の起源かもしれない。
これが今までは外へと投影されてきて、数々の宗教や宗教ドグマを誕生させてきた。
今後は自らの内へと向かうことが重要かもしれない。
内なる信仰、内なる霊性の探究が重要となるかもしれない。
瞑想は霊的同調?
「内なる霊性から求められるという意識の働き = 内なる霊性を求める意識の働き」が人間の内にある。
そして、この「霊性からの呼びかけ = 霊性への衝動」に素直になり、心を開き、心身を任せるのが瞑想だと言えるかもしれない。
つまり瞑想とは霊性との同調、「霊的同調」の実践とも言えるかもしれない。
密教、生命エネルギーとの関係も
生命エネルギーの実践、密教という特殊な方法がある。
この生命エネルギーについて最も知られているのはクンダリーニだ。
ヨガや瞑想、スピリチュアルの界隈ではクンダリーニの覚醒がどーのこーの、潜在能力、超能力の開発がどーのこーのと言われている。
クンダリニー以外でも、生命エネルギーの実践は知られている。
例えば高藤聡一郎氏の仙道、小周天も有名だ。
様々なことが巷では言われているけれど、これら生命エネルギーの実践でも、最も重視され理想とされるべきなのは霊性であると明示されるべきなのではないか。
霊性を無視したやり方は矛盾を含んだものであり、危険性すらあるのではないか。
「内なる霊性から求められるという意識の働き =内なる霊性を求める意識の働き」が人体の脳・神経生理システムにおいて実に顕現したものが生命エネルギーの活動・現象・体験と言えるのではないか。
特に中央気道(スシュムナー)以上の段階では、強くそのように言えるのではないのか。
密教、生命エネルギーの実践のあらゆる段階において、霊性が尊重されるべきであり、菩提心・信仰心に取り組まなければならないのではないか。