外なる神の効用
「外なる神」の効用について思索すべきだという気まぐれの思いつきがふと生じたのでメモ。
進化生物学者や脳科学者は、人間というものは「神」や宗教、信仰を生み出す存在だ、などといろいろと言っています。
この瞑想する人noteでは、宗教・ドグマ(外なる神、外なる信仰)というのは現代先進文明にあって「処理に困る粗大ゴミ」みたいなものとして言及してきました。
この瞑想する人noteで探究すべきとしてるのは内なる意識であり、内なる霊性、もしくは内なる神(内なる信仰)としています。
しかしふと「外なる神」の効用について思索すべきであるという思いつきがあったのでnoteにしておきます。
最近は瞑想タイマー代わりに金剛薩埵 ヴァジュラサットヴァ(Vajrasattva)のマントラ音楽を流すことが多いです↓↓
外なる神の効用
そもそも外なる神が 内なる神の反映ならば
外なる神への礼拝は 内なる神への礼拝に通じる
内なる神の探究のために 外なる神を設定し
外なる神の礼拝を通して 内なる神を見いだす
内なる神を見いだすためには、実践、体験、精神性による理解が必要なので難しい
外なる神は、本質ではななくて仮であり、ドグマ主義や迷信を生み出すことがあり
その理解は劣り優れてはいない
霊性とは疎遠であって親近ではない
しかし外なる神を経ずに、自分自身の意識の内にある神を探究しようとする場合には、冷静さを欠き、思い込みにとらわれ、迷妄に惑いやすく
また自分自身の内にある神ということで、かえって自己にとらわれる障害もある
霊性の探究が深甚へと向かうためには、自己へのとらわれは打ち破られなければならないから
内なるものへの指向があり、宗教宗派主義、ドグマ主義に邪魔されない限りでは、
外なる神への信仰礼拝という過程は、霊性探究の過程(ラムリム)になりえる
外なる神への礼拝を通して内なる神を見いだし
内なる神により近づくことによって
やがては一なる神に至る
一なる神にあっては内も外も、自も他も無く
生もまた無く、死もまた無い
外なる神への礼拝は生起次第に組み込まれる
内なる神、一なる神の理解を得るのは困難だが、究竟次第・密教はこれに役立てられるべきである
これは理想とする大印契(マハームドラー)についての模索に通じるかもしれない
またゾクチェンの思想との関連を見いだすことになるかもしれない
実践し瞑想し思索を深めるべきである
内的な理解の過程として
たとえば熱心なキリスト教徒がいるとします。
そのキリスト教徒は「主なる汝の神を愛し、自分を愛するように汝の隣人を愛せ」「私に向かって『主よ』『主よ』と呼ぶものが、天の御国に入るのではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのだ」という聖書の言葉を信じています。
そして「最も小さい者のひとりに為したことは、すなわち、わたしに為したことなのだ」というようなイエスの説いた愛をエゴ無く実践しています。
するとその熱心なキリスト教徒は、いずれは自らの内に「イエスの愛」「内なるキリスト」を見いだすでしょう。
それを見いだしたのなら、重視すべきなのは、教会での形式的な儀礼やドグマ、聖書の字句などよりも、自らの内に見いだした「内なるキリスト」の方です。
これは「イエスは自らの内にある」という神秘思想をドグマとして信じているのではなくて、実践を通して精神性を通して得た理解ということです。
キリスト教徒であれイスラム教徒であれヒンドゥー教徒であれ、外なる信仰がやがては内なる信仰へと至るものであり、また「良き人間」であろうとしているのなら、
そういった外なる信仰の段階は、金剛大乗における霊性の過程(ラムリム)として包含することは可能かもしれないということです。
自己へのとらわれを避けるものとして
たとえばウパニシャッド、ヴェーダーンタの思想にある「梵我一如」の境地があるとします。
実はアートマンはブラフマンと一つなんだよという境地です。
このような探究にあって、
「私のアートマンはブラフマンと一つである」「私はそれである」
という場合、私、自己へのとらわれが生じて探究の障害となり得るのではないでしょうか。
おそらく「梵我一如」のためには、自我の執着は放擲されなければならないだろうから。
「内なるもの」もしくは「一なるもの」というのは、知識として得てドグマとして信じるものではないのでしょう。
内的な理解として把捉されるものなのでしょう。
「外なる信仰」で、自己を捧げる実践を通して内的な理解を得てからさらにその理解を深めるというのは、内的探究の過程として成立し得るのかもしれません。