【スピ系雑話】もし神を体験することがあるのなら
BGM:バッハ 「われらが神は堅き砦」BWV80
これは詩篇91番ではなくて、詩篇46番によるマルティン・ルターのコラールからのもの。
最近バクティヨガや、シルバーバーチ、エドガー・ケイシー、ニューソートなどの米欧スピリチュアルについて触れることがありました。
この影響で「エドガー・ケイシーの占星学」のnoteを投稿しました。
関連note:【運命論vs.意志 編】エドガー・ケイシーの占星学④ 占星学と意志
今回もスピ系雑話をnoteに。
あくまでスピ系にかぶれた気まぐれの思いつきの文章です。
もし神を体験することがあるのなら。
神にまみえようとするのなら
自らの意識の内に見いださなければならない
自らの内にます神を礼拝しようとするのなら
他者の内に神を見いだし礼拝しなければならない
他者の内に神を見いだし 自らの内にも見、
自らの内に見いだす神を 他者にも反映する者は
一なる神を礼拝する。
どのようにそれを達成するのか?
どのように他者の内に、自らの内に、神を見いだし礼拝するのか?
霊性(智慧・慈悲)、
“「最も偉大なる者とはエゴ無く奉仕する者のことだ」”、
“「『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりに為したことは、すなわち、わたしに為したことなのである』」”
このような精神的な理想、態度を、意志し行動し実践することによって。
慈悲、エゴのない愛を実践と体験を通して理解するにつれて、人は意識の内に神を見るようになる。
いにしえから言われているように、霊性を自分自身に、自らの人生に適用することによって、「神を体験する」ということが人間の意識ー神経生理に生じえる。
神は霊であるのだから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである
関連note
・【バクティ】信仰・礼拝の対象について
・【ラムリムにおける統合!?】キリストの道、菩薩の道、バクティ・ヨガ、密教、瞑想 / もし神が存在するのなら、どこに?
マガジン:金剛大乗(金剛荘厳)