瞑想についてはゾクチェンの思想の影響を受けるだろう
ゾクチェンの思想の影響を受けるだろう
瞑想についてはゾクチェンの思想の影響を受けることになるだろうと思われます。
しかし「自分はゾクチェンの実践者である」と主張するほどにはならないだろうし、青空を見つめる瞑想を熱心に行うことにもならないと思います。
ゾクチェンの伝承にあるものや、修行者の体験や見解を今まで以上に尊重し、学ぶべきことを探してみたいということです。
・なぜゾクチェン? ――― 個人的な好みです
なぜゾクチェンなのかというと、これは個人的な好みです。
上座部仏教系瞑想について読んだりしても、あんまり面白くないなぁと私は思うんです。
「深い瞑想による智慧の体験だな。預流とか一来とかの段階に達している体験やそれ以上かもしれない。スゴいな」と思ってもあんまり興味が持てないんです。
これは私個人の性向なんでどうしようもないのでしょう。
一方でゾクチェンについては「面白いな」と思うことがあるんです。
また以前からうすうす気になっていることもあります。
・私は子どもの頃から「瞑想して心の奥深くに沈みこんでみたいという衝動」があって、それについてこのnoteで「内なる意識」がどーのこーのと言いだすようになったわけですが、今思うと、それはゾクチェンにあるような見解を指向するものだという感覚があります。
・酷いうつ 不安の時の瞑想体験が、ゾクチェンにあるような見解に関係するかもとする感覚があります。
・シンプルな瞑想を「基本的な瞑想」として尊重しているが、この「基本的な瞑想」にはゾクチェンの要素があるのではないかという感覚があります。
・そもそも仏教やボン教なのか? 3万年の教え?
ゾクチェンの起源についてはWkipediaにも諸説が紹介されています。
「ボン教が起源でチベット仏教ニンマ派に受け入れられた」とか「中国禅や老荘思想の影響がある」などの説がよく語られます。
「今日ゾクチェンとして知られる思想や実践の起源は、仏教以前の太古の精神的な伝統にある」とする見解もあって、私は面白いなと思います。
中沢新一氏や永沢哲氏などによる翻訳書や著書にはそういった見解が紹介されています。
たとえば中沢新一 著『三万年の死の教え チベット「死者の書」の世界』の「三万年の死の教え」というのは、ゾクチェンの思想、及び、ゾクチェンの思想とも深いつながりのある「バルド・トドゥル」の思想は、「源=アフリカ文化」を受け継ぐ3万年の古さをもつアボリジニーの文明にもみられるという考察によるものです。
・やはり起源は太古にあって、それゆえに普遍性があるのでは
ゾクチェンについて読むと、これはボン教とかチベット仏教ニンマ派とか、そういう枠におさまるものではないという感覚が生じます。
やはり太古からあった精神性や実践のようなものを感じます。
人類はいつ頃から瞑想なんていう奇妙なことをし始めたのか分かりませんが、上座部系の瞑想やそれによって生じる「智慧」というのは、人類の瞑想の歴史・伝統において花開いた一つの精華であるとは思っています。
一方でゾクチェンの実践や体験については、源初的なものを感じます。
ニンマ派仏教やボン教の実践・体験というよりかは、実践・体験をニンマ派仏教やボン教の用語を用いて「ゾクチェン」として説明しているというような感じがします。
このnoteで、「人類というのは神経生理学的・生物学的にも、内なる意識に向かおうとする衝動、瞑想しようとする衝動があるのではないか」みたいなことをしばしば述べてきました。
ゾクチェンの起源というのは、人間の意識-神経生理の内にあるのものかもしれません。
人間の生物学的基盤に起源のある源初的な実践・体験なのではないかということにおいて、普遍性を私は感じます。