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「見て見ぬふりの天国」(『このあいだ』第6号 2021/3)

柳美里『JR上野駅公園口』河出書房新社、2014

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くので す。」(ヨハネによる福音書14章2節)

 ジョン・レノンの「イマジン」がなぜ「天国はない、と想像してごらん」と歌い始められるのか、ずっと気にかかっていた。
 それはあまりに辛いのではないか。伴侶を失った人、子を亡くした人、大切な友人が早世してしまった人、現世にもはや希望が持てない人、愛するペットを葬った人、それらの人にとって、(自分自身を含めて)愛する存在に再びまみえる場所を消去しようなどというのは酷なのではないか。しかし、ご存知のように、曲は終始雲に包まれた部屋に差し込む陽光のような時間の中を歩む。曲自体がどこか天国的である。天国の存在を信じて疑わなかった自分にはこの穏やかさはしばらくの謎だった。歌詞をつけ間違えているのではないか。いや、でもそういう時にありがちな違和感をこの曲には全く感じない。

 しかし立ち止まって考えてみる。天国というものの喉は、自分たちの身内だけのものにしておくにはあまりにも大きな口を開けすぎてはいないだろうか。私たちはあまりにも簡単に「あの世」へと人を送りすぎてはいないか。自分の愛する存在であれば、天国がどんなに優れた場所であれ、そんなところへは行かせず近くにいて欲しいと思うのに、こと「関係のない他人」のこととなれば、延命という言葉が脳裏をかすめることもない。

 人身事故で電車が止まれば舌打ちをし、己の身勝手で迷惑をかけてくれるなと言う。まるで自分の苦言のお蔭で行為者が反省し、次からは同じことをしませんと生き直せるかのように。

 かつてある異端審問官が問われたという。これから処刑されるこの大勢の異端者の中に、もし罪のない人がいたらどうなるのかと。すると彼は答える。仕分けはあちらで神がしてくださると。つまりもし間違いが起こったとしても、正統的信仰を持つ信者であればあちらで天国に振り分けられるし、もし異端であれば地獄に送られるから差し支えないということだ。

 こうして地上からひとつでも多くの命が失われないようにとの手続きは省略される。そして「去る者は日々に疎し」で、私たちは日常を保つ努力に身を捧げる。

 レノンが言いたかったのは、この天国という仕組みを取っ払ったら何が見えるのか、そこから想像することを始めよ、ということだ。ぼくはそう解釈する。「イマジン」は「頭の中がお花畑の平和主義者」のアンセムではなくて、なかなかハードでタフな現実に立ち向かわせようとする労働歌と言えるかもしれない。なぜなら。

 天国という機械仕掛けの神は存在しない。そうだとすれば、戦争・内戦・飢餓・貧困から人を救うのは人しかいない。それも時間は自分と他者の生きているごく限られた期間しかない。これは途方もなく重い空想だ。とてもこの肩に担いきれるものではない。私の本音は、ただ家族と親しい人たちの幸せを見ていたい、それだけなのに。

 しかし問題は死者の行き場所である。

 『JR上野駅公園口』の語り手は死者となったホームレスである。彼は死んでも死にきれなかった存在そのもので、物語は彼による「神の視点」から語られる。寒村出身の彼は出稼ぎをして家族と離れて暮らし、東京オリンピックの建造物のために汗水垂らして働く。いくら働いても貧しい。皇太子と同じ日に生まれた息子は、これからという時突然帰らぬ人となる。出稼ぎを終えて故郷に戻るも、今度はこれまでほとんど共に暮らせることのなかった妻に先立たれる。年老いた彼は若い孫のところに置かれるが、迷惑をかけたくない一心で(この迷惑をかけたくない一心を理解しない人もいる)、再び東京へ出る。自分のための場所を持つことがずっとできなかったのだから、わざわざホームレスになるまでもない。そして天皇の行幸の際には「山狩り」に遭い、天皇が見て見ぬふりをできるよう「コヤ」を畳んで数時間上野公園の外へ退去するのである。

 私はこの小説を性急に天皇制批判の作品と考えることはしない。問題は、一方で熱意を持って見られる存在があり、一方では見えているのに見えていないふりをされる存在があるということだ。天皇にとっても「臣民」にとっても、見て見ぬふりの天国としての上野恩賜公園、そこに流れる死者の意識を描いた風変わりな作品と思う。そしてこの作品は、目に見えない死者が身近に存在し、確かに記憶しながら私たちを見ているとしたら、という読者の想像を喚起する。

 作者がこの作品内に畳んだ歴史の時間は長い。福島の相馬に浄土真宗の門徒たちが北陸から移り住んだ頃から、東日本大震災の時点まで。書き振りはまるでいまどきの小説ではない。擬音語には敢えてと思わせる即物的な感触があり、薔薇の図譜の展覧会を作中に持ち込んでもまるで飾り気がない。かえって上野恩賜公園で薔薇の絵を観覧することがグロテスクに思える。この小説は顔面蒼白である。しかしこの作品は記憶しようとし、忘れまいとしている。ある死者たちにはそこに天国がなかったことを。天国のない現実をぼくらと生きたことを。隣の忘れられた死者を天国に追いやるのでなければ、ぼくらには供養することができる。それにもちろん、供養する前に優しく接することができる。キリストは天国にたくさんの家があると言った。しかし家があるだけでそこに住めない、見て見ぬふりをされるだけであれば私たちも天国ではホームレスかもしれない。だから彼は私たちのために「場所を備えに行く」と言った。部屋に一冊のアルバム、存在を包み込む毛布。私は想像してみる。何があれば天国は要らないだろう。きっと「想像」のお花畑を枯らさないために水をあげることも供養につながることのひとつなのだ。
 そう信じたい。

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