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本音に逆らわず、自分を知るということ
僕はここ何日間か、仕事が終わって家に帰るとだらだらしてしまっていた。
なんか色々なことへのやる気が起きなくて、スマホをいじる毎日。
この前まで本を読んだり、仕事をしていたり、文章を書いていたりしたのだけど。
突然の無気力モード。
Twitter見たり、Instagram見たり、YouTube見たりと、ネット上を徘徊していた。
僕らしくない。
と思ったけど、僕らしくないってなんだ。
これも僕じゃないか。
そんな開き直りが今日になってできるようになったので、ちょっと今の気持ちを書いてみたい。
まず、何もやる気が起きないというのは、紛れもなくその時の僕の本音だった。
心が体が叫んでいた。
でも、なぜか僕はその最中、何かをしようとしていた。
何かをしないといけない気がしたし、何かをするのが僕らしいと思っていたからだ。
とはいえ、何かをできたわけではない。
あいも変わらずSNSサーフィンをしていた。
罵詈雑言で溢れ返る荒波のSNS上を、のんべんだらりと波乗りをして横切っていった。
いくつかのSNSという海を渡っていったあと陸に上がると、いつも疲れていた。
罵詈雑言の波を浴びた心と体は、あざだらけで疲れ切っていた。
でも、今になって振り返るとそれが良かったなと思う。
あのとき、無理に意識高く自己啓発本でも読み始めていたら、よくなかった。
無意味にも思える数日間の波乗りを終えた今、僕は本当にやりたいことの片鱗に触れている。
それが何かは後述する。
とにかくここで言いたいのは、自分の本音に素直になるのがいいということだ。
なぜなら、心は自分が向かうべき場所を知っているから。
これは、頭にはわからない。
少しでも仕事を進めたほうが売上的にいいんじゃないか?
ビジネス系の本でも読んで勉強した方が合理的なんじゃないか?
常備菜でも作っておいたほうが、効率的なんじゃないか?
など。
頭で考えた正解を追っていると、わけのわからない方向に進んでしまう。
なぜならそれは、自分にとっての正解ではなく、世間にとっての正解だからだ。
もちろん、仕事を進めたほうが事業的にはいいだろう。
しかし、事業がよくなることと、自分の人生がよくなることはイコールではない。
「やっぱり自営業って、自分に向いてないな。」
と仮に本音はそう思っているとしたら、全く別の方向に船を漕いでいることになる。
まずは、世間の正解と自分にとっての正解を切り分けて考えることからはじまる。
そうしたときに、自分にとっての正解に向かって進むには、心に従うしかない。
直感と言い換えてもいい。
直感とは何か。
僕は、これまでの自分の経験や体験、見聞などを全てごちゃ混ぜにしたカオスの中から生み出される道標だと考えている。
つまり、自分にとってこれ以上考えられないという最大限の回答が、直感であり心だ。
だから、心に従うのが自分にとってはいつでも最善になり得るのである。
もちろん、世間的にどうかということはわからない。
他人の物差しで測れば、それは幸せではないかもしれない。
経済的な観点で言えば、もしかしたら貧乏になるかもしれない。
ただ、経済的に成功することと個人の幸せとはこれもまたイコールではない。
億万長者が全員幸福かといえばそうとは限らないし、ホームレスが全員不幸かといえばやはりこれもそうとは限らない。
つまり、経済的にという尺度は参考にはなるが、絶対の指標ではない。
これは、世間一般で言われるそのほかの尺度にも言える。
学力。
権力。
才能。
知力。
魅力。
どれも個人にとっては、高ければ絶対に幸せということはあり得ないのである。
個人の幸福とは、そんなに単純化されるものではない。
もっともっと複合的なものだ。
そしてカオスなものだ。
だから、頭で考えたところであまり有効な答えは出なくて、心に従うのが一番いいとはそういう理由だ。
話を元に戻す。
ここ数日間、結果的に心に従ってだらだらとしてきた結果、僕は広い意味で何か制作をしたいのだと気付いた。
それは、思うに任せてYouTubeを見たり、チャットGPTと戯れたりしているなかで、急にピカーんと現れたのだ。
これが、直感である。
何か理屈をこねて、例えばモノを作って売ったら売上の足しになっていいよな、とかいう感じで出てきたわけではない。
ここ最近見てきた動画と、SNSの投稿と、それからチャットGPTとの会話、それから生きてきた中で経験した無量大数個の気付きから生まれたものだ。
ここからは何を制作したいのかを具体的に考えていくことができる。
何もしたくない、という無気力から解放されたのだ。
振り返ってみると、無気力は次に進むための助走期間なのだなと思う。
その助走期間に走路から外れたり、あるいは逆走したりしてしまうと、一向に飛び立つ瞬間はこない。
だから、次に無気力になったときも、無気力に任せてだらだらしようと思う。
まだ見ぬ自分を知るために。
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