ああ、愛しのサラダ菜
冷蔵庫を開けると、そこにはサラダ菜があった。
どうやら新潟県産野菜詰め合わせセットみたいなやつに、こっそり紛れ込んでいたらしい。
サラダ菜に「紛れ込もう」という意思はないだろうけど、こちらからすると隠れていやがったな?という気持ちになる。
なぜなら、スーパーで買い物をするとして、サラダ菜が青果コーナーにあるとして、あえてサラダ菜を買おうとすることはないからだ。
「サーラーダー菜っと」
と、買い物前にメモに書くはずがないからだ。
なぜなら、サラダに使う葉物野菜ランキングでは、常にキャベツとレタスが王座を競い合い、次いで水菜が追随するという様相を呈しているからだ。
サラダ菜という名前なのに、サラダ菜はオリコンチャート入りしていない。
名前負けしている。
誰だ、サラダ菜にサラダ菜という名前を付けたのは。
サラダ菜が己の名前の立派さに、恥入っているではないか。
球児という名前を付けられたのに、ベンチ入りどころか、スタンドで応援している補欠野球部員くらい恥ずかしい。
よかった、藤川球児はそうじゃなくて。
だがしかし、サラダ菜も実力では負けていない。
美味いのだ。
意図的にサラダ菜を買いに行くということはまずないが、何かの間違いで食卓に並んだ場合、少し嬉しくなる。
いつもの日常がちょっとだけ華やいで見える。
シンプルに塩胡椒で焼いた肉に、シンプルにサラダ菜を巻く、これが一番美味い。
これはシンプルに肉が美味いだけなのではないか、というツッコミは許さない。
サラダ菜に代わって許さない。
サラダ菜の代理弁護人として、法廷に立ち続ける覚悟である。
そんな強い意志を持ち始めた頃、僕は知らぬ間に肉を焼き始めていた。
フライパン、胡麻油、着火、下味を付けた豚肉、油が跳ねる、豚肉のこれは豚肉だあという香り。
肉が焼ける音と香ばしい香りを楽しみながら、しばらく焼いていく。
これでいいんだ、これで。
こういうのがいいんだ、こういうのが。
ある程度表面が焼けたら、日本酒をフライパンにかけ回して、そして蓋をする。
蒸し焼きだ。
きっとそのまま焼いても良いのだけど、僕は肉を焼くと焦がしてしまう。
生まれつきの色弱で、赤や茶色や緑の微妙な違いがわからない。
クラスに1人くらいの確率でいるようなので、それほど珍しいということでもないのだが、これはかなり不便だ。
一人焼肉に行こうものなら、知らぬ間に生肉を食い続けてしまう。
焼肉は苦手だ。
生肉を、そして焦げ肉を食うのを回避する手段として、僕は蒸し焼きという方法を覚えた。
現代を生き抜くための術だ。
現代に限ったことじゃないだろうけど。
というようなことを気ままに、気楽に考えていたら、フライパン内の水分が飛んできて良い頃合いだ。
飛ばし過ぎるとこれまた焦げてしまうので、この辺りで日を止める。
洗っておいた一玉分のサラダ菜をどさっと、あるいはもっさりと一つの大皿に乗せる。
そして、もう一つ大皿を出して、そちらにシンプルに焼いた豚肉をやはりどさっと、そしてもっさりと乗せた。
ご飯は既に冷凍保存しておいたものをチン済みだ。
チン済み。
この言葉は、風紀的に大丈夫か。
食事前的に大丈夫か。
大丈夫、と僕の頭の中の誰かが言った。
それならば問題はない。
なぜなら、ここまで文字で書き起こした全ては、僕の頭の中で執り行われていた会話だからだ。
それが一番恐ろしい。
さて、食卓には役者が揃った。
左からほかほかご飯、そして豚肉、サラダ菜。
まず、手のひらにこれまた手のひらサイズのサラダ菜を乗せ、そして箸で豚肉を掴みサラダ菜の上に乗せる。
サラダ菜で豚肉を優しく包み込む。
豚肉を包む全てが、優しさで溢れるように。
私は強く迷わず、サラダ菜を愛し続けるよ。
そのまま豚肉を包んだ、豚肉を優しく包んだサラダ菜を大きな口を開けて頬張る。
優勝だ。
オリコンチャート圏外から、発売数年後にしてなぜかランキング一位に躍り出た。
キャベツやレタスを遥か後方に置き去りにして、ぶっちぎりの一位でゴールテープを切った。
サラダ菜。
ああ、サラダ菜。
どうしてお前はサラダ菜なのか。
もしかしたら、無限サラダ菜やロールサラダ菜、とんかつの付け合わせにサラダ菜が当たり前の世界線があるのかもしれない。
そう願ってやまない。