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嫌いな相手にどのような態度を取るか

嫌いな相手に対して。

また、理不尽な相手に対して。

自分がどのような態度を取るのか。

僕はつまるところ、『自分がどうありたいか』それでしかないと思っている。

自分がどんな自分でありたいのか。

どんな自分でいることが、自分自身にとって最も心地よいのか。

自分を誇らしく思えるのか。

自分を自分で認めてあげられる自分でいられているのか、ということが何よりも大切だと思う。

自分に自信がない。

自己肯定感がない。

自分が嫌い。

その原因は極論すれば全て、この問題から来ているような気がするのだ。

どんな自分でありたいか。

そして、そのありたい自分でいられているか。

とくに嫌いな人や苦手な人、理不尽な人を相手にしたときにその自分は乱されやすい。

逆に身近過ぎる人もそうかもしれない。

自分の中の内面や感情が抉り出されるとき、ありたい自分を保つことが難しくなる。

例えば、理不尽な人を相手にするとき。

例えば、歩きタバコをしている中年のおじさんを注意したら、「てめえに関係ねえやろ」と逆切れされたとする。

そんなとき、ほとんどの人はありたい自分というものを見出されてしまうと思う。

どんな人にも優しくありたい。

公平公正、どんな人にも等しく中立でありたい。

いつもにこやかに笑っていたい。

そんな自分はどこへやら。

目の前のこの忌々しき理不尽極まりないおじさんのことで頭はいっぱいになってしまう。

殴りたくなってくる。

蹴り飛ばしたくなってくる。

あるいは怖気付いてしまう。

文句の一つでも言い返したくなる。

そんなときにも。

そんなときだからこそ、ありたい自分でい続けられるかどうかが試されていると思う。

こういう場面で、「ありたい自分でいられなかった」という事実が山積すると、それが自信のなさとして現れると思っている。

あるいは、自己肯定感の低さとして。

「なんであのときあんなことを言ってしまったんだろう?してしまったんだろう?」

という記憶が、過去の自分が、今の自分を苦しめ続ける。

だから、いついかなるときも自分がどうありたいかを基準に振る舞うことが大切だ。

それは、社会的に正しいとか、道徳的に正しいとかは関係がない。

(ただ、人間の本音というのは、どんな人であれ本当のところでは倫理的に正しくありたいと思っていると、僕は思っている。)

いつでも基準は自分だ。

自分がどうありたいかだ。

逆に言えば社会で、世間で、いくら正しいと言われていても、自分がそうありたくないのであれば意味がない。

真面目な人は素晴らしい。

社会的、世間的にはそうだろうが、自分がそうありたくないなら、それもまた自分を苦しめることになる。

真面目であらねばならない。

という外的な圧力によって自分を型に押しはめると、その型がぎゅうぎゅうと自分の体と心を締め付けてくる。

そうではない。

自分が本当にどうありたいのか、を自分に問い続けることだ。


僕の個人的な話になって恐縮だが、僕はカフェ店主をしている。

だから、日々あらゆる人と対峙している。

多い日には100人前後のお客さんとコミュニケーションをとる。

そうすると、もちろん自分を乱されそうになる場面が何回もある。

ありたい自分が崩れる音が聞こえてくる。

そんなときにこそありたい自分でいられるかどうか、だ。

今ありたい自分でい続けられるかどうかが、未来の自分を作る。

日々修行だと思っている。


ちなみに僕は、いつも穏やかで微笑んでいる凪の海のような人間でありたい。

水面は静かに穏やかに波打っていて、暖かな日差しがきらめいている。

風が時折優しく吹いて、海鳥たちがさえずる。

海岸には釣り人や海を眺める人々がぽつりぼつりといて、笑みを浮かべている。

僕はそんなような海であり続けたい。

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今野直倫
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