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どうなりたいかより、どうありたいか。

目標はなんですか?

夢はなんですか?

将来どうなりたいですか?

と問われると、途端に困り果てて言葉が出てこなくなってしまう。

あるいはしどろもどろになって、なんかふわっとしたことを言ってみるものの、なんか違うなとなってしまう。

昔からそうだ。

もっと昔は、プロ野球選手になるだの、小説家になるだの、教員になるだの言っていた気がするけど。

それもいわゆる、その年代の人が言いそうな言葉を借りていただけだったなと振り返ってみれば思う。

自分の内から出てきた言葉じゃなかったなと。

そんな受け答えをしている自分が嫌いだった。

嫌いだったというと少し言葉が強すぎるかもしれなくて、情けなかったといったほうがより正確かもしれない。

とにかくこんな自分でいたくないと思っていた。

同じ野球チームにいるあの子のようにきらきらした目で。

同じ大学院にいた同期のように自信に溢れた表情で。

同じ会社で働いていた同僚のように具体的で明確に詳細に。

夢や目標を語れる、そんな人間に憧れていたし、自分もそうなるべきなんじゃないかと思っていた。

自分が馬鹿みたいだった。

あっ、とか、うっとか言ってどもりながら、本心にはないような上部だけの夢を、曖昧な言葉で語る自分。

頭が悪い、と思われていただろうなと思う。

もっと自分を持てよと思われていたと思うし、実際、同じ会社で働いていた人に言われた。

自分がない、と。

そう言われてしまえばそうだろうし、実際、そのように周りには見られていただろうと思う。

でも、自分がないわけではなかった。

強がりではないけれども、自分があるからこその不明瞭さだったし、曖昧さだったし、ふわふわ感だった。

自分がなければ、その場に合わせたもっともらしい夢や目標を語れたと思う。

教員になって子どもたちに英語の楽しさを伝えたい。

もっともらしい。

もっともらしいけれども、もっともらしいが故のむず痒さと気持ち悪さを感じずにはいられない。

だって、僕の内側にあるいわゆる夢や目標と世間で言われるものは、もっと混沌としていて曖昧で、言葉という形式に落とし込むにはあまりにもふわっとし過ぎているからだ。

言葉にしてしまうと、うわ、口先だけで喋っているな自分、という感じがどこまでも付き纏ってくる。

たぶん言葉という形式にするには、10万字や20万字では足りなくて、無限に言説を尽くさなければ正確には表せない。

あなたの夢はなんですか?

この一問一答の形式で答えるには、あまりにも言葉が足らなすぎる。

足らなすぎるという次元ではなく、むしろ削ぎ落とされている部分のほうが99%くらいある感覚だ。

結局のところ、僕が目指すのはこの僕の頭の中にある無限の宇宙にも近い曖昧で混沌とした状態(世界観と言ってもいい)だった。

僕や僕の周りを取り巻くものの状態がこうあってほしい。

というひどく漠然としたものだから、言ってしまえば世界がこうあってほしいということだとも言える。

野球選手になる。

小説家になる。

教員になる。

というのは就きたい職業であって、夢や目標という言葉で定義されるところではないと感じてしまう。

そう答えるのが、一般的なコミュニケーション上都合がいいのは間違いないのだが。

そして、それを場の空気に合わせて答えるのが大人というものだろうが。

どうしてもこの言葉にしたときにあらゆる周辺情報、それは言葉も言葉になっていないイメージのようなものも含めて、が削ぎ落とされてしまうのは嘘をついている気分になってしまう。

そして、それによって誤解が生じるのも本当に嫌だ。

例えば、市外や県外からも多くの人が訪れるカフェを作りたい、と言葉に落とし込んだとする。

もうこの時点で、全身がむず痒くて蕁麻疹が出てしまいそうなくらい嫌な感じなのだ。

そうじゃない。

僕が言いたいのはこういうことじゃない。

僕が作りたいカフェはそんなものじゃないし、そもそもカフェである必然性というのもない。

じゃあ市外や県外から多くの人が来れば何でもいいのか、というとそういうわけでもない。

別に多くの人を呼ぶことが目標ではない。

じゃあ何なんだというと、上記の言葉を一部分とした集合体の全体を、その状態として現実のものにしたいのだ。

というのもなんか違う気がするから、言葉にすると本当に色々と足りなさすぎる。

そして、そもそもの話、何かを達成したり実現したりするということにもこだわっていない。

つまり、目標はない、と言ってもいい。

そういう意味では、夢や目標はもう実現されていると言ってもいい。

なぜなら、今が一番幸せだと胸を張って言えるからだ。

今が続いていく先に、きっと大きな幸せがあるかもしれなくて、でもこの幸せがそのままの大きさで続くのかもしれない。

自分がこのような考え方や思想であり続ける限り、自分という存在はよくなっていくし、それに合わせて現実も良くなっていく。

つまるところ、"どうなるか" ではなく "どうあるか" を考え、実践していくことが全ての原初であり、現実はそれに付いてくるだけである。

つまり、野球選手や小説家や教員やカフェ店主というのは、あくまでそのあり方が具現化した姿でしかない。

だから、それはさして問題ではない。

自分がどうありたいか、それを突き詰めた先に "どうなりたいか" が自然と現れてくる。

どうなりたいかはあり方によって常に変わり続けるものだし、固定化できるものではない。

だから、現時点では漠然とした抽象的な世界観と呼べるものしか定義できないのである。

これまで義務教育から社会人を通して、夢や目標について考えるとき、僕は変なんじゃないかと思ってきた。

でも、そもそもみんながみんな同じ形式で答えられる方が変だ。

職業名をもってして「夢」として答えるフォーマットのほうが変なのだ。

みんなそれぞれのスタイルでその問いに答えればいいし、一言で答える必要もない。

かといって、卒業文集のように原稿用紙にびっしりと書く必要もない。

もはや夢なんてなくてもいい。

自由でいい。

何でもいい。

そう思うと何だか肩の力が抜けてこないか。

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今野直倫 Naomichi Konno
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