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休みの日に川を眺めながら考えた、生きる意味のこと
最近なんですけど、やっぱり自分の気持ちに素直になるっていうのを考えていまして。
昨日、店がお休みで川に行ったのですが、これも効率がいいとか稼げるとか、あとは将来のためになるとかなんかそういうことではなくて。
なんか急にこう川見に行きたいと思って、自転車で飛び出したんですよね。
で、まあこれがいいのか悪いのかっていうのはま正直分かんないんですけど、なんかこういう生き方もありだよねっていうかっていうそんな話をしたいなと思ってて。
なんかね僕たちってどうしてもこう効率とか、これが何のためになるのかっていうのを頭で考えて動いてしまいがちだなって思うんですよね。
「あー!気持ちいい!」っていうことよりも。
例えばこういう資格を取るためにえ勉強した方がいいんじゃないかとか。
例えば、toeic九百点取ると転職に有利だったり就職に有利だったり、こういう仕事に就ける可能性が高くなるだったり。
「じゃあ休日で時間空いたし英語勉強するか」みたいなこととか。
あとは「仕事たまってるし、今日やることないし仕事片付けるか、その方が平日楽になるしな」とかっていう。
こう正解だったり効率だったり頭で考えて動いてしまいがちだなと思ってるんですね。
で、僕も過去振り返ればそうだったなと思って。
最初のキャリアが英語の教員だったんですよね。
やっぱ英語の教員になったのって、英語って使えるようになっといたら将来潰しきくよなとか。
英語の教員じゃなくても例えば今インバウンドの需要が日本は増えてますから、ガイドとかね。
通訳案内士とかそういう仕事に英語ができれば繋がるかなとか。
そうじゃなくても別に英語できてれば何かしら需要はあるよなって。
あるいは海外に出るとかっていうこともしやすくなるわけで。
なんかそういうことを考えて、英語の教員っていう仕事を選んだなと、振り返ればね思います。
で、教員っていう仕事も教員免許持ってればどこでも働けますし、潰しがきく。
世間体もいいじゃないですか教員って、ある程度。
なんかそういう世間から見てどうだとか社会的にどうかっていう、その頭で考えた結論で生きてきたなと思うんですね。
まあ、言ってしまえば田舎ですよ。
川があって、向こうには雪山が見えて、この川の向こうは海にすぐ繋がってるんですけど。
で、田んぼとか畑があって。
チェーン店とかあんまりなくて、本当に個人商店とかが多いような町なんです。
大手企業とかもないです。
そういうところにいるとなんだろう、効率とか世間の正解とか何だったんだろうなと思ってくるんですよね。
でまあちょっと現実というか、目の前のことから俯瞰して離れて考えた時、僕たち個人個人は何のために生きてるのかなって思うんですね。
生きる意味とか、生きる目的、何のために生きてるかっていう問いってあると思うんですけど。
自分に対してそれをずっと考えてる。
常に頭の中を巡らしてて、何なのかなって思うとやっぱり自分が幸せに生きるっていうことだと思うんです。
幸せに生きる。
個人に限って言えばですよ。
人類とか社会とかそういったことを抜きにして、個人が何のために生きてるかっていうと、やっぱり個人個人が幸せになるためだと思っているんですね。
ちょっとこれ話を膨らませると、話が終わんなくなっちゃうんですけど。
人間、人類、ホモサピエンスっていうことで言うと、やっぱホモサピエンスっていう種を後世に繋いでいく、残していくっていうことが唯一の目的っていうか生きる意味だと思うんですね。
生物的に言うと。
その生物的な目的と繋がるんですけど、生物的な目的を達成するためにも個人が幸せであること、個人個人が幸せであることって大事だなって思ってるんで。
これちょっと関係ないなと思ったらあの聞き流してください。
個人の幸せっていうことを何で言ってるかっていうのを補足したくて、理解してもらいたくて話してるだけなんで。
一二分あれば終わると思うんで、スキップしてください。
で、その個人の幸せを追求することが、何で人類的にもいいかっていうと、人類の多様性、種の多様性ですよね。
今ここに生きている種っていうのが何で生き残れたかっていうと、多様でいろんな特徴を持ってるっていうことが大事なわけです。
例えばみんなが同じ全く同じ、例えば免疫を持ってえいたとして、インフルエンザで全人類絶滅しますみたいな話だとしたら、インフルエンザを前にしたらもう終わっちゃうわけですね。
だけど、抗体を持ってる人がいたりとか、ワクチン打ってる人がいたりするから、全人類滅亡っていうことにはなってないわけです。
それは人類だけじゃなくて他の種族にも言えて、例えばよくなんかアルビノで白い何かが突然変異で生まれたとかあるじゃないですか。
たしかエリマキトカゲの襟が発達しているのも、突然変異からみたいな話があったと思うんですけど。
まあそういうことで、突然変異する人がいたり、なんかちょっと変だよねっていう人がいたりすることによって、生き残りやすくなるっていうことなんですよね。
種として。
それは人間も一緒だなと思って、人間が多様であるっていうことが大事ってなった時に、じゃあ大手企業に入って勤めることが正解。
人間個人にとって正解ですってなって全員が大手企業に勤めると、そういう人しかいなくなるわけです。
そっちの方向に能力が伸びた人しかいなくなって、じゃあ大手企業潰れました、世界からなくなりましたってなった時に、じゃあ勝手に明日からあなた一人で生きていってくださいって言われた時に、誰も生きていけなくなる。
みたいなことが起こるわけなんですよ。
って考えると、大手企業に勤める人がいて、個人でお店を始めたりする人がいてもいいし、いろんな人がいていいわけなんですよね。
だから個人個人が幸せに生きる。
自分が何を幸せだと思うかに素直にというか、正直になって生きていくっていうことは、人類っていうことで考えても大事だなと思っています。
そこは相反しないって思ってるんです。
これであの補足が終わりなんですけど。
個人個人が幸せに生きるっていうことは、個人の生きる意味としては、そういう気持ちに素直になっていいんだと思うんです。
例えば、親から言われたりするかもしれないですよ。
「将来どうすんだ」っていう。
例えば、ミュージシャンになりたいって言って、上京するんだって言って、「それ本当に食っていけんの」「将来どうすんの」と。
「今いいかもしんないけど、十年後二十年後食っていけてんのか?」と言われるかもしれないですよ。
だから親としては公務員になって欲しいとか、大企業に入ってほしいとか思いますよね。
心配なんで。
その心配な気持ちはすごくわかって、でも経済的に豊かなことが個人個人にとって本当に幸せなのかっていうことががあると思います。
そので億万長者が全員幸せかっていうと、そうではない。
お金も持っていて資産を築いてすごい豪邸を持っているけど孤独を感じてるとか。
一方なんか昼間から酒飲んで、ワイワイガヤガヤしてるおっちゃんたち。
個人商店してたりする人だったり、まなんか土木とかの仕事してる人って、分かんないですけど、そういう人たち。
多分世間的に見たら給料は低いですよ。
でもそういう人たちが本当に不幸なのかって言われると、そうは思わない。
幸せな人もいる。
もちろん不幸な人もいるだろうし。
って考えていくと、やっぱり経済的に豊かかどうかが一つの尺度でしかないって。
どの尺度を大事にしているかっていうのは個人個人にとって違うわけです。
教員とかの話で言うと、大体一年勤続するごとに一万円給料が上がるぐらいの感じで、新卒二十万三十万ぐらいだとしたら、勤め上げて管理職とかになると多分五十万とか行くんです。
ってなるとま経済的にはそっちの方がいいんじゃないかっていう。
安定もするだろうし、ってなってくるんだけどそれが本当に幸せなのかなと。
個人経営のカフェなんて、勢いがあっていい時はいいけどダメな時はだめで、冬なんて特にお客さん減るから心配っていうか不安にもなることはありますけど。
それでもやっぱりこうしてカフェでお客さんと話していることだったり、農家さんと関わって自分の本当に納得いくものを仕入れたり、それで農家さんが愛情を込めて作った農作物で自分の納得いくものを作ってお客さんに提供してお客さんが喜んでくれる。
僕にとってめちゃくちゃ幸せなことだなって。
お金をねじゃあ数万円どんもらいましたっていう幸せと、今言ったような自分が納得いくものを仕入れて納得いくものを作ってそれでお客さんにめちゃくちゃ喜んでもらえたっていうその幸せ。
どっちが幸せかっていったら、僕にとってやっぱり後者なわけです。
で別にスイーツ一個、コーヒー一個売れて売り上げなんてもう千円とか二千円の話ですけど、じゃあその数万円もらうのと、その千円もらったのとお客さんの笑顔が見れるのってどっちが幸せかって、やっぱ僕にとっては後者だなって思うし。
それぞれ尺度って違うから、大体その周りの人が言ってくる「大丈夫なの?」とか、「本当にそれで将来大丈夫なの?」とか「困らないの?」とかっていうのってお金の尺度だと思うんです。
基本的にその具体的な中身っていうのは、やっぱり本人にしか分からない。
例えば、ミュージシャンになって路上で弾き語りしてなんか帽子広げて、お金を入れてもらったりするじゃないですか。
お布施っていうのか分かんないですけど、ギャラというのかチップみたいなものでね。
なけなしのそんなチップで数万円入れる人なんていないですよ。
僕も東京住んでた時に、新宿のあの駅前で路上でライブしてる弾き語りの人とかいましたけど、やっぱり入れて千円とかですし、じゃあそれで食っていけるのかって言われたらね。
でも十人が千円入れてくれたら一万円になる。
月に二十日やって二十万円って考えたら、かろうじて食ってはいけるんだろうけど、東京で日給一万円だとほんとかろうじてって感じですよね。
家賃とか十万円とか超えてくるし。
でもそれで幸せなんだったらそれでいいんじゃないかって、無責任なこと言うとね。
でも他人のことなんでね、無責任ですよね。
肉親とかでない限り、親とかでない限り基本的には個人個人が幸せだと思うその道を進めばいいと思うし。
それがひいては全人類にとっても、まあ全人類にとってっていう話は別にどっちでもいいんですけど。
うん個人が生きて死んでいくっていうことに関して言えばそれが一番いいんじゃないの?と思います。
経済的に豊かで経済的な不安がないとしても、それ以外の苦しみとか不安って別のところで付きまとってくるんで。
例えば教員やってて経済的にほぼほぼお金が入ってくるっていうのは確約されてたとしても、このまんま教員やってて本当に良かったのかなとか、二十年後三十年後今の生き方に後悔しないかなっていう不安をずっと抱えていくことになるので。
そういった不安を抱えていくのか、経済的な不安を抱えていくのかっていう。
どっちの不安をとるかっていうことでもあるし、別に経済的な不安って手段の話なので。
例えば、カフェをやっていて経済的な不安がありますってなったら、別に手段はいくらでもあるので。
例えば固定費をね抑えるとか、まあそれは手段の話なんで別に何とでもなるっていう。
お金はあくまで手段なんで、銀行から借りるとかもできますし。
事業計画して「月々これだけの売り上げが立ってこれだけの利益が出ます、なんでこれだけお金を返していけるんで、いくらいくら貸してください」っていうことで銀行にお金を工面してもらうこととかはできるし。
実際僕もそうやってやってますし。
って考えたら別に経済的な不安は何とでもなる話かなと。
今で言ったら銀行とかじゃなくてクラウドファンディングとかもあるんで。
まあそれは別に手段の話だから大した問題ではない気がしますけどね。
それよりも自分が心から本当に納得して生きていけるかどうか、自分が個人として幸せであるかどうかっていうことが大事かなと思います。
皆さんも自分にとって尊い時間、気持ちっていうのをま大事にしてみるといいんじゃないかなと思います。
では、さようなら。
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