シン・エヴァには『君の名は。』を、つまり新海誠を認めているというメッセージが含まれているのでは?(旧題:シン・エヴァは、旧エヴァファンにかけてしまった「エヴァの呪縛」を解くのに充分な物語だ)
面白かった、いや面白かったと言わざるを得ないだろう。100点満点で採点すると、86点となった。これは自分基準で★4.5(★5が最高)となる。
感想に入る前に、目次と自分のエヴァ視聴歴および『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下、『シン・エヴァ』)について参照した情報を書いておきたいと思う。
まず自分のエヴァ視聴歴であるが、「旧エヴァTV版」はなぜか最終話だけリアルタイムで見て、20年後に9話くらいまで(シンジとアスカが初めて共闘し、息を合わせて使徒を倒すところあたり)見た。「新劇場版」の『序』は半年前の2020年夏ごろ、『破』・『Q』は公開直前である2021年3月6・7日に視聴。そのため「旧劇場版」は未視聴であるし、漫画版も未読である。
次に参照した情報について書くと、映画本編以外ではパンフレットだけである。付け加えると宇多田ヒカルによる主題歌『One Last Kiss』の歌詞だろうか。あの歌詞は恐らく『シン・エヴァ』における碇ゲンドウ視点で書かれている歌詞であるため、未読の方は読んでみるのも良いだろう。さらに言うと『One Last Kiss』のMVは庵野秀明が監督を務めているため、未視聴の方はYouTubeなどで観ることをオススメする。
では目次を以下に記す。なおこの感想は、全体で6500文字ほどである。
目次
かなりの文章量であるため自分として重要な段落を書くなら、「01、02、06、09、10」となる。長文かつ駄文であるが、お付き合いいただけると嬉しく思う。
01.採点と内訳
最初に書いた86/100点の内訳を記す。なおこの配点は自分が映像作品を採点するときに用いているものだ。(ちなみにこの配点での最高点 = 自分が一番好きな映画 = 『君の名は。』は95点である。)
■『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』86点
物語:14/20
人物:19/20
音楽:15/20
演技: 5/ 5
哲学: 5/ 5
主題: 5/ 5
映像: 5/ 5
総合:18/20
▼物語基礎点:15(かなり良い)
全体としてわかりやすく作られていたと思った。自分がエヴァに抱いていた印象は「宗教的な用語を多用するがその意味は明かさないなどの、投げっぱなし系」であったが、『シン・エヴァ』ではテーマをしっかり説明し、理解しやすくしている印象を持った。おかげで新劇だけ見たような自分であっても理解できたと考えている。
以下、基礎点からの加点減点。
-2:第3村での展開が冗長に感じた。いや、アヤナミレイ(仮称)(以下、別レイ)が居場所を見つけたりシンジが回復するための時間であることは理解できるが、それでも長く感じた。
+1:第3村の展開は別レイの喪失を印象付けるためだけの演出と思っていたが、鑑賞後にここでの展開が「社会」の必要性を描いているのだと思ったこと。
▼人物基礎点:20(最高)
どのキャラクターも魅力的であり、かつ心情を吐露してくれる場面もあったため理解しやすかった。とりわけゲンドウとアスカの心情描写がわかりやすくて良く、完結編に相応しい描き方であったと思う。
以下、基礎点からの減点。
-1:ミドリ(ピンク髪かつ厚ぼったい唇の、軽いキャラした女隊員)が少し不快なキャラクターであるため
▼総合基礎点:15(かなり良い)
物語と人物部分で書いたように、完結編として申し分ない作品だと思う。しかしながら個人的には、鑑賞後の心地よさ(≒カタルシス)がそこまであるわけではなかった。わかりやすく作ってくれた分、疑問点や不明点、謎に思う部分もあまりないため再度観ようという気にはなっていない。そのため基礎点は15点とした。
【印象的なシーン】
その1.別レイが活動限界を迎えて液化する場面。それまでの牧歌的な雰囲気が一変して一気に引き込まれた。
その2.ミサトが銃弾からシンジをかばって被弾するものの、「シンジくんの全責任は艦長の名において私がすべて負う」のように宣言したところ。ミサトのシンジに対する信頼(≒愛情)が表れていて、軽く涙ぐんだ。
その3.ラストカットにて主題歌『One Last Kiss』の歌いだしが流れてきた瞬間。
以下、基礎点からの加点。
+1:ラストシーンの心地よさとハッピーエンド感
+1:圧倒的な映像美
+1:神木隆之介の起用理由と推測しているコト(これについては段落10.にて触れる)
02.『新世紀エヴァンゲリオン』として伝えたいこと
『シン・エヴァ』いや『新世紀エヴァンゲリオン』として庵野秀明が伝えたかったことはたった1つであるように思う。それは「自分の殻に逃げ込むな。傷つくのを覚悟の上で他者に近づけ。人との繋がりが一番大事なのだから」だ。これはシンジの言動、情動および行動と、ゲンドウの過去およびそこから発生した動機から読み取った。
人は一人では生きられない。正確に言うなら、他者と関わって社会を形成してこそ人間として生きられる。だからニアサードインパクト後のセカイにおいても、そんな状況下で形成されたシャカイ(=第3村)を描いていたのではないかと思う。そしてこれは、ヒトが生きていくには社会が必要ということを示しているのではないか。ひいては社会を無視している「セカイ系」への間接的な反論ではないだろうか。そう自分は感じた。
03.『シン・エヴァ』はシンジの成長物語だ
『シン・エヴァ』単体として見た時、目立つのはシンジの成長を描いていることだろう。劇中でカヲルもはっきりと発言している(もっとも、カヲルに発言させたのは「わかりやすさ」を前面に出した結果だと思うが)。では、なにを以って「成長した」と言えるだろうか?これは主題とも関連するが、「自分の殻に逃げ込むのをやめ、他者を知りたい・関わりたいという行動を起こしたこと」と言えるだろう。ヴンダー内のエヴァ初号機に再び乗りたい、とミサトに言ったシンジは、それより前のシンジとは別人レベルへと成長していたのだ。
04."ATフィールドは「心の壁」"と言われていたことの再認識
旧エヴァを見ていないとはいえ、社会現象まで起こした作品であるから旧エヴァについての解説めいたものは何度も目にしてきた。その中のひとつに"ATフィールドは「心の壁」"と書いているものがあった。当時、ATフィールドというのはエヴァだの使徒だのが張る原理不明なバリアだと思っていたので、良くわからないことを言っているな、としか思っていなかった。だが『シン・エヴァ』ではまさに「心の壁」として描かれていたので納得した。
特に印象的なのがシンジとゲンドウが対峙した時にゲンドウだけがATフィールドを張っていることで、これはゲンドウ自身も言っていたように「シンジを恐れて」いたのだろう。それほどシンジの成長は圧倒的だったのだ。そしてそのシンジは、何の苦労もなくゲンドウのATフィールドを通過してS-DATを手渡している。これはシンジが「父を知りたい」と心から思ったからできたことなのだろう。このことを我々に当てはめた場合、他者との障壁というのは常に自分が張っているのだ、ということが言えるだろう。本当に相手を知りたいと真摯に行動したなら、どんな「心の壁」もたやすく通過できるものなのだ。
05.エヴァQ感想(2021年3月8日に投稿した)で言及していたことの訂正
エヴァQの感想(※)において「ミサトもリツコも、鈴原サクラもニアサーを起こしたシンジを憎んでいる」と書いたが、『シン・エヴァ』にてそうではないことが示されていたため訂正する。ミサトは憎んでいるというより責任を感じているがゆえの態度であったし、リツコはミサトと同じ態度を取る必要がある立場に就いている。そしてサクラは恩義と憎しみ両方の感情を抱いていた。エヴァQ時点において100%の憎しみを抱いてそうなのは、ミドリくらいか。
※「エヴァQは『セカイ系』作者に対する庵野秀明の返答だ」
https://note.com/konnkonn50/n/n40fef3abbb07
06.役割的な意味での「マリを追加した理由」
新劇の特徴としてマリの追加がある。ではなぜ追加したのか?と考えてみた時、次の2点の役割を持たせたかったからでは、と考えた。
06-1.戦闘的な役割
戦闘的な役割としては、アスカを戦線離脱させても問題ないようにする、ということだと思う。『シン・エヴァ』では開幕からタイトルコールまではマリひとりで戦っているが、これだってマリがいなければ描けない戦闘だ。この戦闘そのものにはあまり意味がないと思うが、マヤとその部下たちとの関係性を描くためには必要なシーンだ。またアスカはこの時、シンジ達とともに放浪したのちに第3村に滞在する必要があるのだから、その意味でもマリがいた方が良い。
そして戦闘的にもっとも重要なのはシキナミタイプの生アスカにアスカが取り込まれたあとで、すなわちここでアスカを戦線離脱させてもエヴァパイロットが存在している状態で物語を紡ぐことができる。そのためのマリなのだと思う。
06-2.物語的な役割
物語的な役割としては、シンジとアスカを「くっつけないため」と考える。ここで重要なのは、シンジとマリがくっつくことではない。それは後付けというか消去法的に決まることであって、一番の役割はシンジとアスカをくっつけないことだ。
『シン・エヴァ』クライマックスでのアスカ回想シーンで描かれる通り、アスカが求めているのは恋人というより父親に近い存在である。これは、シンジが成長する前に求めていたのが恋人ではなく母親であることと対比されている。だから新劇においてシンジとアスカがくっつくことはないのである。しかしシンジとレイが結ばれることもまたない。レイは母親であるところのユイとニアリーイコール、または妹になるかもしれなかった存在であるため、結ばれることは禁忌である。
だがそうするとヒロイン2人ともが主人公と結ばれないこととなり、世界は救われてもシンジが救われた気がしない。そのためのマリなのである。
はっきり言ってしまうがアスカまたはレイに比べると、マリとシンジが共有した時間は薄く短い。またマリはゲンドウとユイと同級生であることから、生きてきた年数がかけ離れているとも思う。しかし肉体年齢的には、エヴァの呪縛から同時に解放されたシンジとマリはほとんど同じであるし、精神年齢的には成長後シンジはゲンドウを超えているだろう。もちろんマリの精神年齢も成熟しているため、その意味ではベストカップルと言える。
以上が、自分が考える「マリを追加した理由」である。
07.旧エヴァからのファンへの真なる感謝(≠ファンサービス)
パンフにある通り、旧エヴァから25年の月日が経った。旧エヴァ放送当時に思春期であった人は今、アラフォーになっているということだ。そして旧劇を含む旧エヴァは、いわばバッドエンドであると周りから聞いている。世の多くの人はバッドエンドよりハッピーエンドを望むだろう。その意味で旧エヴァファンはやるせなかったことと推察する。代わりの物語を求めた人もいただろう。しかし新劇の所信表明にて庵野秀明が断言した通り、"この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。"という状況だったのだ。つまり、旧エヴァファンは「エヴァの呪縛」によって時間を止められていたのだ。
そんな中で始まった新劇。『序』『破』での盛り上がりとは裏腹に『Q』では鬱々とした展開になり、また空白の時間が8年以上続いたため旧エヴァファンは不安だったのではないだろうか。しかし公開された『シン・エヴァ』は、ご存知の通りきれいにまとめたハッピーエンドであった。旧TV版の各回タイトルを高速で流した場面などは、旧エヴァファンにはたまらないものだったのではないだろうか。
自分がはっきりとわかったシーンはこのTVタイトル部分だけであったが、それらを盛り込んだのは「ファンサービス」などという軽いモノではないと考える。ではなにか。それは旧エヴァからのファンへの「真なる感謝」なのではないだろうか。そして『シン・エヴァ』によって、旧エヴァからのファンは「エヴァの呪縛」から解放されたことだろう。彼らの時間はようやく動き出したのだ。
08.「難解な or キリスト教的な」単語を造語として使用していることの意義について
エヴァの特徴として「難解な or キリスト教的な」単語を使用していることがあげられると思う。これは旧TV版放映当時の世紀末感にマッチし、旧エヴァの人気要素のひとつになったと思う。
『シン・エヴァ』においてもそれらの単語が登場しているが、個人的な見解として庵野秀明がキリスト教を信じているとは思えないのである。これら用語にあまり深い意味はなく、いわゆる「エヴァっぽさ」を出すための味付けなのではないか。そう考えている。
09.もし次に庵野秀明に語ってほしいテーマがあるとすれば、それは「認め合う事」
『新世紀エヴァンゲリオン』として伝えたいことは段落02.にて書いた通りだが、これは中高生に向けたメッセージであり現代で生きるための第一歩と言えるだろう。では第二歩はなんであろうか。
それは「認め合う事」と考える。「認め合う事」はLGBTQに代表される性的マイノリティに対してもそうであるし、世代ごとの人数差から生じる世代間理解においても大事なことなのではないだろうか。
庵野秀明が次に何を語るのかは存じ上げないが、もし「認め合う事」を語ってくれるなら期待して待ちたいと思う。
10.『君の名は。』を、つまり新海誠を認めているというメッセージ
『シン・エヴァ』を観ていて、自分はなぜだか『君の名は。』を想起していた。覚えている限りで挙げると以下の4点となる。
10-1.別レイに対するシンジのセリフ「君の名前は?」
10-2.エヴァが先にやっていた「音楽を流しながら日常を切り抜きで描く」見せ方の使用
10-3.第3村という農村で繰り広げられる「エヴァっぽくなさ」
10-4.ラストシーンの社会人シンジの声を神木隆之介(=『君の名は。』の主人公である立花瀧役)に任せたこと
ここからは完全な推測となるが、庵野秀明は『君の名は。』を、つまり新海誠を認めているのではないだろうか。
段落07.にて引用した言からもわかる通り、庵野秀明は新しいアニメを求めていたが1995年~2006年までの12年間では現れていなかった。しかしついに現れたのが『君の名は。』(2016年公開)だったのではないだろうか。
上で挙げた4点のうち、客観的に見て明らかなのは「10-4.ラストシーンの社会人シンジの声を神木隆之介に任せたこと」だ。緒方恵美が社会人シンジの声を出せないとは思えない。ではなぜこんな大役を神木隆之介に任せたのだろうか。客寄せパンダ?いや違うだろう。むしろ旧エヴァファンからは反感を買うはずだ。もちろんそんなことを庵野秀明が想像できないとは到底思えない。ではなぜか?
そう考えた時に自分が結論したのが、庵野秀明は『君の名は。』を、つまり新海誠を次世代のアニメ監督として認めているということだ。そして新海誠にバトンを渡すことを示すために、批判を承知で神木隆之介を起用したのではないか。ちょうど宮崎駿が『風立ちぬ』で庵野秀明を主演に起用したように。
自分は、そう考えている。