42年前と30年前の震災と私
そのとき私は小学6年生
修学旅行先の函館にフェリーで向かっていて
もう少しで港に到着というところで船が止まった
ザワザワしだす船内
少ししたらアナウンスが流れた
内容は
地震が発生し津波の危険性があるため
船を沖に戻して様子を見る
というモノだった
それが、忘れもしない
いまから42年前の5月26日に発生した
日本海中部地震だ
海の上だったのもあり揺れは感じなかったが
安全のため、船は沖に戻り
そこでしばらく待機させられた
待機してる間、船内にあるテレビを見て
そこでようやく、酷い地震が起こったんだ
ということがわかった
そして、津波が発生し
小学生の子が海に遠足に行ってて
津波にさらわれたということを知った
少しして、船内の一室で
たくさんの人の泣き声が聞こえてきた
カーテンが閉まっていて
誰が泣いてるのか、そのときはわからなかった
でもあとからわかったが
あのとき泣いてた人たちは
津波にさらわれた小学生の子たちと
同じ小学校の生徒だった
その子たちも私たちと同じで
修学旅行で函館に向かっていた子たち
その小学校の下級生の子たちが
遠足で海に行っていたらしい
その子たちが津波にさらわれたのだ
カーテン越しに聞こえてくる嗚咽
その泣き声はいまも耳にこびりついている
たぶん私は、このとき初めて
地震というモノの悲惨さを彼女たちを通して
まざまざと感じたように思う
そして、ハッと我にかえり家族のことを思い出した
電話しなくちゃ!と思い
公衆電話を見ると長蛇の列だった
しばらく待ってようやく家に電話できた
電話口で母が泣きながら
『良かった!良かった!
船から投げ出されたんじゃないかと心配した』
と言っていた
修学旅行は無事おこなわれたが
どんなだったのかまったく記憶がない
ただ、修学旅行を終え家に帰ってきたとき
親が安心して涙ぐんでいたのは覚えてる
父は町の消防団に入っていて
津波の現場に行き救助を手伝ったらしいが
そのときの様子を父が話してくれたとき
声を振り絞るように話す父の姿が
脳裏に焼きついている
内容も覚えているけど
悲しくて、とても文章にはできないほどだ
それからだ
私が海が苦手になったのは
そこから12年後
いまから30年前の今日
阪神淡路大震災が起こった
私はそのとき奈良にある
児童養護施設で勤務していた
奈良は震度4だったが
それでもかなり激しい揺れだった
揺れがおさまったあと
すぐに子供たちの無事を確認した
テレビをつけて
飛び込んできた映像に我が目を疑った
戦争かと思った
同じ関西でこんなことになってるなんて
信じられなかった
しばらくして
近くの小学校にヘリコプターがくる、と聞き
私たちは必死におにぎりを握った
子供たちもヘタクソながら必死に握った
たくさんの方が被災されてる中
私たちが握ったおにぎりなんか
ほんの少しの方にしか渡らないかもしれない
そう思ったけどなにかしてないと落ち着かなかった
ここからほんの数時間で行ける距離の街が
まるで空襲にでもあったかのような
そんな状態になってるのを知って
なにもしない、という選択肢なんかなかった
子供の頃に聞いた
あの悲痛な泣き声もリンクされ
テレビを見ながら涙が止まらなかった
どうか、どうか一人でも多くの命が
助かりますように、と祈り続けた
これが、私の震災の思い出である
この翌年、私は結婚した
夫もちろん、この震災を経験している
水が出なくて
一週間以上も同じお風呂に入っていた
ドロドロのお湯やった
知人が、お湯が出たからと言って
風呂入らせてくれたときは天国かと思った
こんな話をよく私や子供にしていた
なんてありがたいことなんだろう、と思う
命があり、あったかい家に住めて
毎日お風呂に入れて、お水が飲めて
これらすべてが当たり前じゃないと
わかってるのに忘れてしまう
何度でも忘れるから
何度でも思い出さなければならない
そこに、想いを馳せながら
力強く生きていかなければならない
それが、生きてる私たちの使命なんだと
心に刻まなければならないんだな
と、朝からいろんな方の
震災に関する投稿を読んで
しみじみ思った私だった
黙祷…